f 天狗と呼ばれた剣豪・斎藤伝鬼房 - 草の実堂

戦国時代

天狗と呼ばれた剣豪・斎藤伝鬼房

斎藤伝鬼房とは

斎藤伝鬼房とは

※イメージ画像 侍と薙刀(1870年)

斎藤伝鬼房(さいとうでんきぼう)は、ド派手な格好で薙刀を用い、その出で立ちから天狗と呼ばれた剣豪である。

彼が開祖した天流は、薙刀術・槍術・鎖鎌術・棒術・手裏剣術・取手・小具足(柔術)を含んだ総合武術であった。

天流を継承した下河原恭長天道流と改名した薙刀術は、現在の「薙刀(なぎなた)」へとつながっている。

天狗と呼ばれた剣豪・斎藤伝鬼房について追っていく。

塚原卜伝との出会い

斎藤伝鬼房は天文19年(1550年)常陸国真壁郡新井手村(現在の茨城県筑西市)の北条氏康に仕える小番衆の子として生まれる。

斎藤伝鬼房とは

※塚原卜伝(月岡芳年画)

幼少の頃より剣術や槍術を好んだ伝鬼房は、剣聖として名高い新當流の開祖・塚原卜伝(つかはらぼくでん)の門下生になる。

伝鬼房は持ち前の剣術の才を見せ、200人を有に超す門下生の中でも一番強くなった。

達人ゆえに自身の技の限界を感じた伝鬼房は、鎌倉の鶴岡八幡宮に百日参詣して更なる上達を祈願していた。

天流の開祖

天正9年(1581年)伝鬼房31歳の時、参詣中に武芸の腕が立つ修験者と出会い、刀槍術について語り合い時には仕合をして研鑽を積む。

互いに刀槍術の技の可否を吟味していくうちに、自然と新たな剣術の妙技を悟っていった。

百日参詣の満願の日、夜が明けて修験者が去ろうとすると、伝鬼房は修験者に「そなたの刀槍術の流派名は何か」と尋ねた。

すると修験者は何も言わずに太陽を指さして立ち去っていった。

そのことから伝鬼房は自らの剣術を「天流」と名付けた。

天狗の伝鬼房

伝鬼房が更なる高みを目指し諸国を修業して廻っていると、次第に伝鬼房の剣の腕前が評判となり朝廷から声がかかる。

朝廷に参内して天流の秘剣「一刀三礼」を披露すると称賛されて「判官左衛門尉」の叙任を賜り、伝鬼房は入道して自分を「井手判官伝鬼房」と称した。

「判官左衛門尉」とは源義経楠木正成らが叙任した位である。朝廷からお墨付きをいただいた伝鬼房の名は全国に知れ渡っていく。

五畿内を廻国した後に武芸者としての名声を上げた伝鬼房は、故郷の真壁に戻る。

斎藤伝鬼房とは

※イメージ画像 烏天狗 wiki(c)WolfgangMichel

この時の伝鬼房のいでたちは、羽毛で織ったド派手な衣服を着ていたので、まるで天狗のような格好だったと評判になった。
伝鬼房は普段から、ド派手な衣服を好んで着ていたようだ。

伝鬼房」というド派手な名前も当時は天狗の名前に「」を付けていたことから取ったとされている。

自分の名前を売るためのアピールとして、派手な衣服と名前にしたのかは定かではないが「天狗の伝鬼房」として知れ渡る。

霞党との決闘

真壁に戻った伝鬼房のもとには下妻城主・多賀谷修理太夫を始め、多くの武家が教えを請いに殺到した。

伝鬼房は地元の英雄のような存在となっていくが、この地方は元々神道流が盛んで、すでに幾つかの道場があった。
彼らの中には、後からやって来た伝鬼房を心よく思わない者たちも多かった。

そんな中、伝鬼房は霞神道流の真壁氏幹(まかべうじもと)の門人で、自らの剣を霞流と称した桜井霞之助から挑戦されて仕合を行うことになる。

斎藤伝鬼房とは

※真壁久幹とされる肖像

霞神道流は、常陸国の国人領主だった真壁久幹(まかべひさもと)が開祖した流派である。

息子の真壁氏幹は長さ2mの鋲を打った樫木棒を振り回して戦場を駆け抜けた武勇から「鬼真壁」と称された剣豪であった(※これは父の久幹だったとされる説もある

真壁氏幹と伝鬼房は、かつては塚原卜伝の元で剣術を学んだ同門であり、氏幹は兄弟子でもあった。

そんな兄弟子の門人との仕合は死闘となり、伝鬼房は桜井霞之助を斬り殺してしまう。

これによって伝鬼房は霞神道流の門人たち「霞党」の恨みを買ってしまうこととなる。

天正15年(1585年)伝鬼房は弟子の小松一卜斎(こまついちぼくさい)と一緒にいる所を、霞党数十人の待ち伏せにあった。

囲まれたと知った伝鬼房は弟子の一卜斎に「逃げろ!」と命じるが、一卜斎は師匠を置いて一人で逃げることを拒む。

伝鬼房は一卜斎を不動堂に匿い、手にした鎌槍で飛んで来る無数の矢を切り落とし獅子奮迅の戦いをするが、最期は全身に矢が刺さり力尽きてしまう、享年38歳だった。

その後、伝鬼房が亡くなった場所に奇怪事件が起き、土地の人々は伝鬼房の霊を祀る小社を建て「判官の杜」と呼ばれた。

天道流へ

一卜斎は生き残り、飛んで来る無数の矢を切り落とした伝鬼房の技とその最期を、伝鬼房の実子・斎藤法玄に伝えた。

この話は「一文字の乱」として、天流そして天道流の基本として伝承されている。

伝鬼房の死後、天流は息子の斎藤法玄が継承して、以後は斎藤牛之助日夏重能日夏能忠と継承されていく。

日夏能忠の門人・下河原恭長は天流を「天道流」と改称して現在も継承されている。

天道流薙刀術 眞月会

公式サイト https://shingetsukai.com/

天道流薙刀術の特徴は、真剣勝負そのものといった形試合にあるとされている。

相手の動きに従った無理のない合理的な薙刀の使い方で、刀筋を正しく押し切り、引き切り、抉り突く、腰の開きや組み足の力に特徴がある。

天道流の形には一文字の乱・骨髄剣など鋭い薙刀さばきが主で、薙刀だけでなく二刀・鎖鎌・杖・剣などの技がある。

薙刀には数多い流派がある中で、天道流の形の数は120本あり、その必殺の剣技は古武道の代表とも言われている。

薙刀術は江戸時代に幕府が武士個人での薙刀の所持を禁止したことによって、一時、薙刀術の存続が危うくなったこともある。

※薙刀術の演武を行う女学生。1911年(明治44年)11月11日、浜松高等女学校秋季運動会において撮影

その影響なのか、女性専門の「おんな薙刀」として専門流派も出現し、現在も女性の競技が盛んである。

かつては女子校や女性のみしか習えないという、男子禁制の武道という時期もあった。

おわりに

斎藤伝鬼房は朝廷から官位を叙されるほどの剣の達人で、ド派手な衣服とド派手な名前に負けない実力の持ち主だった。

剣聖・塚原卜伝の優秀な門下生たちは、それぞれが自分の流派を開いて剣の腕一本でのし上がっていった。

運命のいたずらか、兄弟子の門人たちに恨まれて非業の最期を遂げたが、斎藤伝鬼房の最後の薙刀術は「一文字の乱」と称され天道流の基本となり、薙刀のルーツの一つとして現在も伝わっている。

 

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