安土桃山時代

織田信長は安土城に何を求めたのか調べてみた

織田信長は安土城に何を求めたのか調べてみた
※織田信長

戦国大名でも人気のある織田信長は、天下統一の夢を目前にして命を落とした。しかし、ほぼ同時期に織田信長が失ったものがもうひとつある。

黄金と朱色で彩られ、誰もが見惚れたという幻の城「安土城」がそれだ。

戦国という過酷な時代に造られた煌びやかな城。織田信長はこの城にどのような意味を持たせて築城したのだろうか?

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安土城とは


※安土城がある安土山の空中写真(1982年)

安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下にいた別の武将の城があったが、信長に安土城建設のための用地提供を要請された。武将には代わりの領地が約束されたため、信長へ引き渡されたあとは、1576年(天正4年) 1月に築城を開始、1579年(天正7年)5月、完成した天守に信長が移り住む。

それまで信長が本拠地としていた岐阜城よりも、琵琶湖東岸という立地から京に近いため利便性があった。何より山城でありながら、安土山の周囲は開けており見晴らしがいいということもある。完成後は、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。

また、安土城は総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった。

ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となる。建造当時は郭が琵琶湖に接しており、交通(水運)の便が良かったこともよくわかった。

天守


※土城天主(宮上茂隆復元案)を模した伊勢・安土桃山文化村にある天守風建物

安土城の特徴として、荘厳な天守(現地では「天主」と表記)を持つ点が大きい。

当時の城は天守を持たないのが普通であり、天守という高層建築を城の一部に取り込んだのは、日本で安土城が初めてだった。

地下1階地上6階建てで、天守の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。6重目部分は朱に塗られた八角形の建物の中に更に八角形の部屋があり、金で塗り固められた黄金の部屋が存在したという。
7重目、つまり最上階には室内外だけでなく、天守の上に載っていた鯱瓦まで全身に金箔が貼られていた。しかし、安土城の資料はあまりに少なく、こうした話はすべて「信長公記」に記される「天主次第」という文献からの想像である。

信長公記には6重目は「八角四間あり、外柱は朱、内柱は皆金」とあり、7重目は「三間四方、御座敷の内皆金なり、お座敷内外柱惣に漆」と記されている。6重目が朱と金だったのに対し、7重目は黒と金だったことは間違いなさそうだ。

現在、信長公記により復元(想像)された6重目、7重目の実物大建築物が安土城跡に近い「信長の館」に展示されている。

これは1992年にセビリア万博(スペイン)の展示物として作られたものを、万博後に譲り受け、ここに展示されているものだ。

城の特徴


※安土城

日本初の天守を持つ安土城だったが、それ以後の城と比べても独特な構造が見られる。

まず、高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴だが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けている(他の礎石は全て現存している)。後の調査により、この穴の上にはかつて仏教の宝塔があり(天守指図からの推測)、穴には舎利容器である壺が入っていたものと推測されている。

また、天守の居住性が充実しており、先述の通り信長はここで生活していたとされる。こういった高層建築物を住居とした日本人は、信長が初とも言われている。

さらに、安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だった可能性も指摘されている。平安京の内裏における殿舎のひとつであり、天皇の日常生活の居所として清涼殿という建築物があるが、この本丸の造りが清涼殿に似ているというのだ。清涼殿は、その後も豊臣秀吉や徳川家康がそれぞれ別の清涼殿を充てているが、こちらはそれ以前の建築である。

信長は他の武将に先駆けて、安土城に天皇を招く準備をしていたのだ。

象徴としての安土城


※現在の安土城址

安土城は、安土山全体にその施設が分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が現在、城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。

このように天守の建設も含めて当時としては異例の規模での工事であり、集められた人足もかなりの数であった。そのため、城下には築城に従事する人々と、それらを相手に商いをする商人などで賑わい、信長も市場の発展を奨励したという。完成後、城下町から眺める天守は豪華絢爛でありながら、勇壮で見るものを驚かせた。

一方で、城の防御策が乏しい点も指摘されている。普通、城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、安土城には籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備は著しく少ない。また大手門からの道は幅6mと広く、約180mも直線が続く。

さらに安土山は見晴らしは良いが、琵琶湖以外に天然の要害となるような場所がなく、攻め込まれれば苦戦するのは目に見えていた。そのため、安土城は政治的な機能を優先させて作られたものと考えられる。

安土城築城の意味


※安土城天主断面

安土城は天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、軍事目的よりも政治目的、なにより天下人の象徴として築城されたのだった。

天下統一まであと一歩の時点であり、信長の関心は宗教と朝廷にあった頃である。

3年後の1582年(天正10年)、信長は明智光秀の謀反により本能寺において炎の中に消えたが、安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物も、山崎の戦いの後まもなくして焼失している。山崎の戦いとは、本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦いのことである。

ただし、焼失したのは天主や本丸などであり、後に織田秀信が二の丸に入城したように、城としては十分に機能していた。しかし、象徴である天守が焼失したことは、織田の天下人への夢が終えたことを民衆に実感させたのである。

最後に

織田信長の最後にして最高の居城でありながら、あまりにも資料が少なく、現在では文献や発掘調査によって当時の姿を調べるしかない。
越後には上杉謙信も存在していた時代とはいえ、信長の目にはすでに太平の世が見えていたからこそこのような特殊な城が完成したのだ。

参考記事:織田信長

桶狭間の戦いの真実について調べてみた
戦国大名としての織田氏(1)
戦国大名としての織田氏(2)
本当に織田信長は「人間五十年」と謡(うた)ったのか

信長の館公式HP

http://www.zc.ztv.ne.jp/bungei/nobu/

 

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