戦国時代末期、ある大名が東北の地を統一し、やがて天下に覇を唱えようとした。
「独眼流」の異名を持つ「伊達政宗」である。
しかし、戦国の世は終わろうという時代である。いち早く天下を統一した豊臣秀吉、そして、その後に天下人を目指す徳川家康。伊達政宗は、この二人の臣下として仕えるしかなかった。
やがて、正宗にふたたび領土拡大の機会が訪れる。1600年の関ヶ原の戦いである。このとき、正宗は徳川家康から東軍に付けば100万石の領土を与えると約束されていた。しかし、その約束は反故にされ、与えられたのは荒れた大地が広がる62万石の仙台藩。だが、正宗はこの地で新たな決意を固める。
それは、仙台藩100万石への夢であった。
天下人への夢
※伊達政宗
1567年(永禄10年)8月3日、出羽国(現・山形県)の米沢城で生まれた正宗は、幼い頃の病により、右目の視力を失った。独眼流と呼ばれた由縁である。しかも、母親の義姫は、正宗よりも弟の小次郎を可愛がったという。
1584年(天正12年)10月、18歳の若さで伊達家の家督を継いだ正宗は、領土拡大に乗り出す。もともと、当時の東北には小さな勢力の大名が領土を拡大しようとせめぎあっていた。伊達氏もそのひとつであり、正宗の領土拡大の野望も東北だけに留まらず、関東にまで視野に入れていた。
当時の手紙には「関東中もたやすく候(関東もたやすく手に入れてみせよう)」と書かれている。
事実、正宗の領土は急速に拡大し、東北最大の大名となった。しかし、正宗の元に、当時天下人を目前にしていた豊臣秀吉から小田原の「北条討伐」に出陣せよとの文が届く。遅れながらも小田原に向かった正宗は、秀吉の臣下になることを決める。
しかし、この遅れにより、伊達家の領地は114万石から、現在の宮城県とほぼ同じ地域である58万石に領地を減らされたのであった。伊達政宗、25歳のことであった。
消えた100万石
一度豊臣の家臣になると決めた正宗は秀吉に尽くし、古参の重臣並みに取り立てられたが、程なくして秀吉は死去してしまう。秀吉亡き後、権勢を振るい始めたのが徳川家康である。
1600年(慶長5年)、家康は再三の上洛の求めに応じようとしない上杉景勝の討伐のため、自ら兵を率いて東北に向かった。その機を狙って大坂で挙兵したのが石田三成である。このままでは徳川軍は東西から挟み撃ちにされてしまう。そこで、家康は正宗に上杉氏を攻撃し、上杉氏の拠点である会津に釘付けにするよう命じたのである。
※上杉景勝
その際、家康は自分に従えば、秀吉により奪われたかつての領土を与えることを条件に出陣を求めるものだった。その命に従い、上杉氏を攻撃した正宗であったが、ここでまたしても領土を減らされることになる。
実は、上杉氏への攻撃と同時期に南部藩では一揆が起こり、正宗はその隙を付いて領土を拡大すべく、一揆に加勢しており、それが家康の耳に届いていたためであった。
自らの行動が招いた結果とあっては、家康との約束である100万石の領土も諦めざるを得なかった。
千年以上栄える国造り
1603年(慶長8年)2月、徳川家康が江戸幕府を開き、伊達氏は仙台を中心にしたおよそ62万石の領土を与えられる。
もともと伊達政宗とは実直な人物である。武力で100万石を手に入れられないのなら、内政により100万石を手にしようと考えていた。そのことを伺わせる歌が残されている。
「入りそめて国ゆたかなるみぎりとや 千代とかぎらじせんだいのまつ」
この地に来たからには、ここを千年以上続く豊かな国にしてみせると思い描いていたのだった。
しかし、仙台藩の北上川上流は湿地が多く、開発できない荒地が広がっていた。正宗は荒地の多さを「際限なく」と表したほどである。ここから、正宗の新たな挑戦が始まった。
※北上川
まず、家臣たちに藩内の新田開発を奨励する一方、自らは北上川の問題に取り組む。長さ249km、流れが急なために度々水害を起こし、開発の最大の壁となっていたのだ。この河を克服しなくては藩は豊かにならない。
正宗は、川の流れを変えるという大事業に乗り出した。
北上川の大改修
概要としては、上流で川の流れを堰き止め、新たに水路を掘って隣の川に合流させるというものである。北上川の西に広がる湿地帯の水捌けをよくして、新田開発を行うというものだった。さらに水路は大きくS字型に蛇行させて、流れが緩やかになるように工夫した。5年にわたる工事の末、長さ7kmものS字型の水路が完成し、北上川の流れは東におよそ3kmも移動したのである。
その結果、西側の広大な土地が水田に生まれ変わった。
北上川の改修工事が始まってから13年後の1618年(元和4年)4月、領内を視察した正宗は、さらなる水田開発の必要性を感じ、税の軽減を条件により多くの荒地を開発するよう触書を出している。しかし、北上川の改修は新たな問題を引き起こしていた。上流で合流させた川の水が、下流で洪水を起こすようになったのだ。
そこで正宗は新たな人材を登用した。治水工事に精通している川村重吉(かわむら しげよし)である。元は毛利家の家臣だったが、毛利氏の減封にともない浪人となっていたのだ。
伊達政宗 夢の100万石へ
重吉は現場に入ると寝る間も惜しみ、測量と工事に励んだという。
その工事は、洪水の起こる地域の上流に堤を作り、川幅を広げた別の河に水を迂回させるという大掛かりなものであった。しかし、重吉の力により工事は完成し、さらに新田開発は進むこととなる。それに伴い、米の生産高も伸びていった。やがて、北上川流域に広がった水田は豊かな米を実らせるようになる。
まさに「有り余るほど」の米の量であり、正宗は余りの米を江戸で売りさばくよう命じた。
1620年(元和6年)3月、初めて仙台藩の米が江戸に送られる。そのときに積み出された米は500石。しかし、この500石こそ100万石への大きな一歩であった。やがて正宗は、北上川の工事を成功させた重吉に新たな領地を与え、そこでも新田の開発を命じる。あくまでも正宗は藩を豊かにすることだけを目指していた。
しかし、初めて江戸に米が送り出されてから16年後の1636年(寛永13年)、正宗は70歳にしてこの世を去った。しかし、正宗の死後も歴代の藩主は新田開発に力を注ぎ、やがて「江戸に入る米の3分の2は仙台藩の米」といわれるまでになったのである。
そして、江戸時代中期には遂に仙台藩の石高は実質的に100万石を超えたのだった。正宗の死後、約80年後のことである。
最後に
とかく武士としての評価が注目されがちな伊達政宗であったが、武力では秀吉や家康には敵わなかった。
しかし、藩主として経済力で立ち向かう決意をし、それを実現させたのである。急成長する江戸の町を支えるほどの米所となった仙台藩は、日本そのものを支えたといってもいいだろう。
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