今山の戦い
鍋島直茂(なべしまなおしげ)は、天文7年(1538年)に肥前(現在の佐賀県)の鍋島清房の次男として生まれました。
父の代から肥前の龍造寺氏に仕え、母も龍造寺氏の出身でした。
やがて龍造寺氏の当主に隆信(たかのぶ)就任すると、その右腕となった直茂は龍造寺氏の勢力拡大に尽力しました。龍造寺氏の元の主君にあたる少弐氏を永禄2年(1559年)に滅亡させ、肥前における龍造寺氏の台頭を支える功績を挙げました。
龍造寺氏は、永禄12年(1569年)に大友宗麟の侵攻を受けました。直茂はその際に隆信に籠城策を進言しつつ、同時に安芸の毛利氏に通じて大友領への侵攻を促すなど、戦略面においても外交手腕を発揮しました。
続く元亀元年(1570年)の今山の戦いにおいては、圧倒的な兵力の大友勢(一説には兵数50,000人~60,000人)に対し、正攻法では勝ち目のない状況であることから、直茂は夜襲を提案しました。そして自ら今山に陣を構えていた大友親貞に対し、僅か700人程の手勢を率いて夜襲を敢行し、見事に大将である親貞を討ち取って大友勢を退ける働きを見せました。
この戦いは、大友勢にとっては一局地戦に過ぎないとも言えましたが、圧倒的な優勢にあった大友家を撃退したことで、龍造寺氏の力を対外的に知らしめ、直茂の名を高める事となりました。
沖田畷の戦い
天正6年(1578年)、直茂の働きによって肥前南部の有馬氏、大村氏らを龍造寺氏は支配下に置きました。同年には隆信が隠居し隆信の嫡男・政家が家督を継承、直茂はこの政家の後見人となりました。
続く天正9年(1581年)、直茂は隆信と謀って、薩摩の島津氏と内通していた筑後柳川城主・蒲池鎮漣(かまちしげなみ)の誅戮を成功させました。
しかし、天正12年(1584年)に運命の「沖田畷の戦い」が発生します。
離反した有馬氏の征伐のため龍造寺勢がこれを攻めた戦でしたが、数の上では圧倒的に優勢だった龍造寺軍が、有馬氏の援軍の島津家久の巧みな戦術で、総大将の隆信を討ち取られで敗れてしまいました。このとき、直茂は責任を取って自害しようとしたとさえ伝えられています。
直茂は、家臣の制止もあってなんとか肥前へ逃れて、政家を補佐しつつ龍造寺氏の挽回を試みました。このとき島津側は、討ち取った隆信の首級を返すことを申し出ましたが、直茂はこれを拒絶し、あくまで徹底抗戦する姿勢を示しました。
この行動が和睦の交渉において、結果的には島津氏に従属することになったとはいえ、龍造寺氏側に有利な条件を引き出すことに繋がったとされています。
秀吉による龍造寺氏の代理へ
「沖田畷の戦い」の後、島津氏に従って筑前の大友氏の領地へと龍造寺氏も侵攻しました。
しかし直茂は、島津氏に表面上は従いつつも、豊臣秀吉への九州征伐の要請という外交策も同時並行で行っていました。そして豊臣の大軍が近づくと島津氏から離反して、島津氏が捕らえていた大友方の立花宗茂の母・妹らを救出し、立花勢とともに島津氏を駆逐する働きを見せました。
豊臣勢による九州平定後、秀吉はこのときの直茂の貢献とその才を評価し、龍造寺氏と別の所領を預け、且つ政家の代理として龍造寺氏の統治も行うよう命を下しました。こうして直茂は、この時点から実質的に龍造寺氏の支配権持つことになりました。
続く朝鮮出兵においても、直茂は龍造寺氏の軍を率いて渡海しました。この頃には名目上の当主である政家との確執が囁かれるようになってきており、文禄4年(1596年)には、政家を排除しようと企図しているとの言説が流布されるに至り、直茂はこれを鎮めるための起請文を提出することになりました。
主家乗っ取りの汚名
秀吉の没後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、直茂の息子・勝茂が西軍に与しました。直茂は徳川家康の優位を確信していたため、勝茂を西軍から離脱させ、さらに肥前にあった自身は、久留米城、柳川城などの西軍方の城を攻めて、家康側に与していることを示しました。
この結果、直茂の所領は戦後も無事に安堵されました。一方、龍造寺氏は政家が隠居しましたが、政家の息子・高房が徳川幕府に対して、鍋島氏に置かれた統治の実権を龍造寺に取り戻す請願を行いました。しかし幕府はこの願いを退けたため、高房は直茂を恨んで死亡したとされています。
直茂は、元和4年(1618年)に耳に腫瘍ができ、激しい痛みに苦しむ最期を迎えたとされています。享年81歳と長寿であった直茂でしたが、そうした死に際の風説が高房の祟りと囁かれるようになり、後の「鍋島化け猫騒動」の元となったと伝えられています。
直茂はその才覚ゆえに、秀吉の命を受けかつての主家を引き継ぐ形となったにも関わらず、なんとも不条理な物語を生んだ武将となってしまいました。
但し直茂は龍造寺氏に憚って藩主には就かず、佐賀藩初代藩主は息子の勝茂が担いました。直茂は「藩祖」と呼ばれています。
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