「何だこりゃ、汚い壺だなあ」
物置の奥から出て来た骨董品を捨てようとしていたら、実はとんでもない高級品だったと知って愕然とする……そんな経験をお持ちの方もいるかも知れません。
一方、これはお宝に違いない!と永年珍重してきたのに、いざ手放そうとしたら二束三文の値段しかつかず、これまた愕然……こっちの方が多そうな気がします。
しかし、モノの値段なんてつけたモン勝ち、言ったモン勝ちなところがあり、例えば戸棚の奥に眠っている茶碗だって、あなたが1億円と言ったら1億円です(買い手がつくかはともかく)。
現実にはそれなりの権威がないと、自分の言った値段で流通させる≒価値を持たせるのは難しいものの、逆に権威さえあれば実質以上に価値を吊り上げられます。
そこで今回は戦国時代、茶の湯を流行させた千利休(せんの りきゅう)と豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)のエピソードを紹介。いったい彼らは、どんな荒稼ぎを企むのでしょうか。
ただより怖いモノはない?秀吉からのプレゼント
時は文禄2年(1593年)、菜屋助右衛門(なや すけゑもん)なる商人が呂宋(ルソン島)から輸入した様々な珍品を秀吉に献上します。
(※)史料によって屋号は納屋(なや)、魚屋(ちや)など別名があり、また助左衛門(すけざゑもん)と書かれていることもあります。
唐傘や蝋燭、麝香(じゃこう)、香辛料など……その中に、壺が50個ありました。
「これは……」
見れば粗末な壺で、元々は12世紀ごろに中国大陸(南宋)で焼かれ、輸入したものを雑器として使っていたもののようです。
「まぁ、物入れにでもお使いいただければ……」
助左衛門としてはその程度に思っていたようですが、秀吉は何か思いつきます。
「でかした!」
「?」
さっそく秀吉は利休を呼び、50個の壺を上・中・下とランクづけさせました。ざっくり上が10個、中が30個、下が10個くらいでしょうか。
「これを(大坂城西の丸)大広間に並べたら、大名らを呼び集めるのじゃ」
「ははあ」
秀吉に招集された大名たちは、何事だろうと大広間へやって来ました。
「これは……?」
ずらりと並んだ壺の向こうに、上機嫌な秀吉が笑っています。
「おぉ、来たか。これは呂宋から取り寄せた真壺(まつぼ)と言うて『利休が見立てた』上等の品じゃ。どれでも好きなのを持っていってよいぞ」
見ると壺の一つ一つに値段がついていて、どれも高価なものばかり。
「……本当に、持っていっても?」
「うむ。だから持っていけと言うておるではないか」
当然のことを訊くなとばかり面倒げに答える秀吉に、大名たちは二の足を踏みます。世の中「タダほど高い(怖い)ものはない」、ちょっと食事をおごってもらうのとは、レベルが違いすぎます。
「いえ、あの、これほどの高級品にございますれば、お代を出させていただきたく……」
「ふーん、そうか。別に要らんが、まぁ好きにせぇ」
できればカネは出したくないが、出さねば後が恐ろしい。さりとて壺をもらうこと自体を辞退すれば、後がもっと恐ろしい……という訳で誰が言い出したのか、壺を買わざるを得ない状況に。
ざわ……ざわ……(おい、貴殿はどれにする?)
ヒソヒソ……(正直苦しいが、下ランクの壺を買ったら侮られそうで嫌だな)
コソコソ……(となれば、選ぶべきは中ランクであろうな)
定食で松竹梅(まつ・たけ・うめ)のコースがあったら真ん中の竹コースを選ぶ人が多いように、ここでも中ランクの壺が最もよく売れて、次いでみんなにいいところを見せたい者が上ランクの壺に手を出し、結局47個が売れたそうです。
残った3個はすべて下ランク。これは秀吉が買い取って、助右衛門はにわかに大儲け。呂宋貿易で財を成した呂宋助右衛門の二つ名で呼ばれるようになったのでした。
海外では「狂気の沙汰」扱い?
……といったエピソードが小瀬甫庵(おぜ ほあん)『太閤記』にあるのですが、利休は2年前の天正19年(1591年)に切腹しているため、これ自体は恐らくフィクションと考えられます。
しかし、実際に秀吉は真壺(呂宋壺)を好み、大名たちも競って買い求めたそうで、にわかに到来した呂宋壺ブームに便乗するため、商人たちはこぞって現地で買い漁ったそうです。
その様子を、当時フィリピンを統治していたスペインの代理総督アントニオ・デ・モルガは奇異の目で見ていました(下の引用がちょっと長いので、読むのが面倒な方は飛ばして下さい)。
「このルソン島、特に、マニラ、パンパンガ、パンガシナン及びイロコス諸州においては、原住民の間に、非常に古い土器の壺が発見される。色は褐色で、外観はよくなく、あるものは中型で他のものはもっと小さく、しるしがあり押印してあるが、どこから来たものかいつ頃来たものか誰も説明できない。というのは、今はもう、どこからも到来せず、また島でも作られていないからである。日本人はこの壺を探し求め尊重しているが、それは、日本人が非情な御馳走として薬用として熱くして飲む茶という草の根が、日本の王や諸侯の間では、この壺にのみ蓄え保存されることを知ったからである。日本ではいたるところで、この壺が大変に尊重されており、彼らの奥の間や寝室における最も高価な宝物とされている。この壺の値段は高く、日本人は、その外側を大変に美しい細工を施した薄い金で飾り、金襴の袋に入れておく。中には、一一レアル貨で二〇〇〇タエ(タエル)に評価され売られるものもあり、物によってはそれ以下のものもあるが、ひびが入っていても、欠けていても中に茶を保存するのに不都合はないので、それによって価値が下がることはない。これら諸島の原住民は、それらの壺を出来るだけ良い値で日本人に売ると共に、この商売のために壺を探すのに一生懸命になっているが、今までにあまり急いで売ってしまったので、今ではもうほとんどなくなってしまっている」
※アントニオ・デ・モルガ『フィリピン諸島誌(Sucesos de las Islas Filipinas)』より
【上の要約】マニラでは二束三文で使われていた粗末な壺が、日本では茶道具として高く売れたものだから、フィリピンの現地民はこぞってこれを売り払ってしまい、新たに輸入も生産もしていないから、もうほとんど残っていない……。
買い漁る方も売り払う方も正直どうかとは思いますが、茶の湯に使える(映える?)となったら、みんな目の色を変えて殺到したのですから、いかに茶の湯が日本文化に大きな影響を与え、利休たち茶人の目利きが権威を持っていたかが察せられます。
エピローグ
かくして巨万の富を築き上げた「呂宋」助右衛門ですが、後に秀吉の怒りを買い、財産没収のうえ追放されてしまいます。
一説には先ほど献上した呂宋壺が実は現地民の便器(おまる)として使われていたことがバレてしまったとも言われるものの、もしそうだったら現代も大切に保管されているはずはなく、恐らく暴利を貪ったとか、それなりにもっともな理由でしょう。
しかし助右衛門もしたたか者で、どうせ没収されるならと立派な邸宅や宝物などはさっさと寺院に寄進してしまい、財産は仲間商人を通じて海外へ送金。身一つでルソンへ渡り、後にカンボジアへ渡って再び豪商に成り上がったそうです。
一方の秀吉も、茶人らによって海外から取り寄せた雑器の目利きをさせて高級茶器として大名らに売りつけ、着実に財産を築き上げていきました。
「二束三文の海外雑器が高値で売れる……まさに茶の湯様々、利休様々(※)じゃのう……」
(※)利休に切腹を命じたのは、この利権を独占したかった、あるいは利休が勝手に茶器を売りさばくようになったからとも言われています。
こうして見ると、品物の価値以上の価格をつけて売る行為は暴利を貪っているように思えるかも知れませんが、大名たちにしても品物自体が粗悪であることは百も承知。
「名高き茶人が価値をつけることに意味があり、粗末なつくりにこそ侘寂(わび さび)の味わいがある」
モノよりも、精神性を買っている……ちょっとカッコよく言っただけですが、そうした高尚っぽさが戦国武将たちの心をつかみ、茶の湯ブームを盛り上げていったのでしょう。
※参考文献:
川戸貴史『戦国大名の経済学』講談社現代新書、2020年6月
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