血で血を洗う戦国時代、とかく女性は政略の道具として扱われ、当人の望まぬ結婚を強いられた事例は多々ありました。
結婚と言っても実質的には人質で、何かトラブルがあれば追放ならまだマシな方、ひどければ処刑されてしまう事例も決して少なくありません。
今回はそんな一人、駒姫(こまひめ)のエピソードを紹介。
彼女のたどった過酷な運命に、思いを馳せていただければと思います。
関白・豊臣秀次の側室に……
駒姫は戦国時代末期の天正9年(1581年)、出羽国南部(現:山形県)の戦国大名・最上義光(もがみ よしあき)と大崎(おおさき)夫人の間に生まれました。
名前は伊万(いま。お伊萬の方)、通称の駒姫とは御駒山(おこまやま。現:宮城県栗原市)からとられたそうで、母方の実家である大崎氏の本拠地(現:宮城県大崎市)に近い事から、何か所縁(ゆかり)があるのでしょう。
さて、そんな駒姫は両親の愛情を惜しみなく受けて育ち、幼いころから輝くような美貌で評判となっていました。
将来はどんな素敵な婿殿をお迎えするのだろうか……最上家はもちろんのこと、領民までもが駒姫の幸せを心から楽しみにしていたある日、時の関白・豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)が駒姫を側室に差し出すように要求します。
「最上よ、そなたの娘はたいそう美しいそうであるが……」
「いえいえ、まだ幼き童にございますれば、とても関白殿下のようなお方にはつり合いませぬ……」
必死に断り続けた義光でしたが、天下の美女を求める秀次の執念は並大抵ではなく、「ならば15歳になるまで待つゆえ、必ず寄越すように」と厳命。
これ以上断れば御家が滅ぼされかねない窮地に追い込まれてしまった最上家では、駒姫が15歳となった文禄4年(1595年)、泣く泣く秀次に差し出したのでした。
「すまぬ、姫よ……これも家臣や領民を守るため……どうか、堪忍してほしい……」
「姫や、古来『馬には乗ってみよ、人には添うてみよ』と申します。関白殿下のお側で、きっと幸せになるのですよ……」
「母上……父上……」
まぁ、どんな相手であろうと嫁入りには見送る涙がつきものですし、いざ一緒になってみれば、けっこう幸せになってしまうもの……そうとも、きっとそうなるとも……そう信じて出羽国から遠路はるばる京都へやって来たのが7月ごろ。
「姫様、長旅お疲れ様にございました……どうかここでは、少しでもお疲れを癒して下さいまし……」
「……ありがとう」
しかし、一息つく暇もなく7月15日に秀次が切腹。太閤・豊臣秀吉(ひでよし)に対して謀叛を企んだとか何だとか、秀次の一族縁者もことごとく処刑されることとなったそうです。
中止命令が間に合わず……
「嫌!放して……っ!」
「姫様は婚礼前、まだ殿下に嫁がれておりませぬのに、何ゆえ連座せねばならぬのですか!」
「えぇいうるさい!謀叛人と縁を結んだ己が不明を悔やむがよいわ!」
問答無用で捕らわれてしまった駒姫。そんな、無理やり結ばされた縁だと言うのに理不尽すぎます。
このままでは駒姫が処刑されてしまう……国許でそれを知った義光は、もう半狂乱でなりふり構わず、助命嘆願に奔走しました。
「どうか、どうか姫にお慈悲を……っ!」
秀吉はもちろんのこと、他の有力大名にも今回の理不尽さを訴えて回ったお陰で、駒姫を助命するように求める声が高まります。
「うぅむ。忌々しい秀次の縁者と思えば憎々しいが、こうまで皆がうるさいと、あまり無下にすると後が面倒じゃのぅ……」
仕方なく秀吉は、駒姫に対して「夫?の菩提を弔うべく出家して、鎌倉の尼寺へ入るように」と命令しました。
……が。8月2日、処刑中止の命令を携えた早馬があと一町(約109m)までやって来たところで、駒姫は処刑されてしまったのです。
「「「あぁ、間に合わなかった……」」」
【駒姫の辞世】
罪なき身を 世の曇りに さへ(遮)られて 共に冥土に 赴くは 五常のつみ(罪)も はらひ(祓い)なんと 思ひて 罪をきる 弥陀の剣に かかる身の なにか五つの 障りあるべき【意訳】
私は何の罪もないはずなのに、濡れ衣を着せられて死んで行かねばなりません。
五つの罪を祓うはずの阿弥陀如来の剣によって斬り殺される私の運命は、女性として生まれ持った五つの障り(※)ゆえと言うのでしょうか。(※)女性には生まれ持った五つの障害(欺・怠・瞋・恨・怨)があり、それゆえに修行しても成仏できないとする仏教思想の一つ。
【参考:五障について】
欺(ぎ):その美しさで男性を欺き、手玉に取る
怠(たい):その美しさで男性を骨抜きにし、勤労意欲を失わせる
瞋(しん):ヒステリックに怒り狂って男性を困らせる
恨(こん):何かと不満を募らせて自分では努力をしない
怨(えん):自分の不満は男性のせいだと敵意を抱く※こういう手合いは男女問わずいるものですが、とかく男尊女卑が蔓延していた時代の価値観として紹介しています。
五常(ごじょう)とは儒教が掲げる五つの徳目(仁・義・礼・智・信)であり、それを犯した罪を断ち切ってくれるはずの阿弥陀様の剣で、私はどんな罪で斬られると言うのか……理不尽極まる仕打ちに対する駒姫の無念が表れています。
※この辞世は駒姫が生前愛用していた着物の生地で表装され、京都国立博物館に保存されているほか、レプリカが京都・瑞泉寺や山形市の最上義光歴史館で閲覧されているそうです。
「あぁ、姫よ……」
こんなことになるなら、何としてでも嫁入りを拒否すればよかった……義光と大崎夫人の後悔は想像に余りあるものの、ともあれ殺されてしまったのであれば、せめて遺体だけは返して欲しいところ。
しかし、秀吉は「もう死んでしまったのだから、特段に配慮してやる必要もあるまい」とばかり義光の要請を拒絶。
それどころか、処刑場の三条河原に掘った大穴へ他の遺体ともどもまとめて放り込み、その上にはデカデカと「畜生塚(ちくしょうづか。動物の墓)」と刻んだ石碑を立てたそうです。
いくら秀次が憎いからと言って、この仕打ちはあまりにも酷すぎる……心ある者たちは口々に批判したと伝わっています。
終わりに
「姫よ、そなたを送り出してしまった、この母を許しておくれ……」
駒姫の死を悲しんだ母の大崎夫人は病床に臥してしまい、処刑から間もない8月16日、後を追うように病死しました。
「おのれ……おのれ猿め!娘ばかりか妻までも奪いおった……この怨み、断じて忘れてなるものか……っ!」
この時の怨みが、後に関ヶ原合戦(慶長5・1600年)で豊臣家を見限り、徳川家康(とくがわ いえやす)率いる東軍に与する動機になったと考えられています。
駒姫が処刑された翌文禄5年(1596年)、義光は妻と娘の菩提寺として専称寺を山形城下に移し、二人の霊を懇ろに弔ったのでした。
※参考文献:
伊藤清郎『最上義光 (人物叢書)』吉川弘文館、2016年3月
村上計二郎『列伝偉人の結婚生活』日本書院、1925年1月
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