16世紀、ヨーロッパからやってきたキリスト教宣教団イエズス会は、日本での布教活動を精力的に行っていました。
しかし、その布教活動の裏には「日本征服と中国征服」という信じがたい計画が隠されていたのです。
最近の研究によって明らかになったイエズス会による本来の計画、そして豊臣秀吉が下した伴天連追放令には、どのような背景があったのでしょうか。
今回の記事では、イエズス会の日本と中国の征服計画、秀吉の伴天連追放令、そしてイエズス会の対応について、詳しく見ていきます。
イエズス会による日本・中国征服計画とは
慶應義塾大学の高瀬弘一郎氏の研究により、イエズス会が日本を征服し、キリスト教化した日本軍を利用して中国を征服する、という野心的な計画を立てていたことが明らかになりました。
16世紀後半、イエズス会は日本での布教活動を積極的に行っていました。当時の日本は戦国時代で、各地の大名が覇権を争っている状況でした。イエズス会は、この状況を利用して自らの勢力を拡大しようと考えたのです。
イエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョは、キリスト教に改宗した有馬晴信を支援するため、マニラのイエズス会布教長アントニオ・セデーニョに援助を求める書簡を送りました。
その書簡の中で、コエリョは軍隊や武器、食料などの支援を要請し、これらの援助によって有馬晴信の勢力を拡大し、日本の支配権を握ろうとしたのです。
さらにコエリョは壮大な構想を抱いていました。それはスペイン国王の助力を得て、日本全国をキリスト教化するというものです。
もし日本全国がキリスト教に改宗すれば、勇猛で知略に長けた日本人兵士を大量に獲得できます。コエリョは、このキリスト教化した日本軍を利用できれば、より簡単に中国を征服できると考えたのです。
また、キリスト教に入信した大名たちが、日本人を奴隷として外国に売っていたという事実も明らかになっています。
秀吉の伴天連追放令
1587年、豊臣秀吉は九州遠征の際に、長崎がイエズス会に寄進されており、日本人奴隷が輸出されていることを知りました。
秀吉の側近である大村由己の記録によると、イエズス会は宝物を積み上げ、なんと日本人数百人を奴隷として売り飛ばしていたのです。
中世で外国に売られた日本人奴隷たち ~【年間1000人以上、豊臣秀吉が救った】
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/65181/
さらにガスパル・コエリョが、秀吉の目の前でポルトガル軍船による軍事的デモンストレーションを行ったことで、秀吉の怒りを買いました。
秀吉はコエリョを問責し、1587年6月19日に伴天連追放令を発しました。
追放令では、キリスト教は邪法であり、宣教師は20日以内に国外退去すべきとされました。ただしポルトガル商船による貿易は許可され、仏教を妨害しない限り、ヨーロッパ諸国との往来も認められました。
秀吉は日本人向けの「覚」も発し、キリスト教入信は個人の自由とし、大名による改宗の強制や日本人奴隷の売買、牛馬の食用を禁止しました。
これらの政策は、イエズス会の活動を制限しつつ、日本人の権利を守ることを目的としていました。
イエズス会の対応とヴァリニャーノの判断
秀吉の伴天連追放令を受けて、ガスパル・コエリョは全国に散らばる宣教師たちを集めます。
協議の結果、コエリョはフィリピンのマニラ総督に対して、スペイン軍の日本派兵を求めることにしました。当時のフィリピンはスペインの植民地であり、コエリョはスペイン軍の力を借りて秀吉に対抗しようと考えたのです。
これと同じ時期、イエズス会の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが再び日本を訪れました。
ヴァリニャーノは以前、織田信長に会見して布教の許可を得るなど、日本での宣教活動に深く関わっていました。
ところが、わずか数年の間に状況は一変。秀吉による追放令が出されるなど、日本でのイエズス会の立場は危うくなっていました。
ヴァリニャーノは、ヨーロッパの情勢変化についての情報も持っていました。
1588年、スペイン王フェリペ2世がイングランド征服のために派遣した無敵艦隊が、イングランド海軍に敗北したのです。この敗北により、スペインはオランダの反乱も鎮圧できなくなり、新大陸の広大な植民地を維持するのも精一杯になっていました。
そのためスペインには、日本へ軍隊を派遣するだけの余力がなかったのです。フィリピンのスペイン軍も、現地の先住民を制圧するための小規模な軍隊しか持っておらず、秀吉の大軍に対抗できるような戦力はありませんでした。
これらの情報を総合的に見たヴァリニャーノは
「日本征服は不可能である。これ以上、秀吉を刺激しないように、イエズス会は武装解除すべきだ」
と判断しました。ヴァリニャーノは、軍事力では秀吉に対抗できないと判断し、宣教活動を続けるためには、秀吉との対決を避けるべきだと考えたのです。
ガスパル・コエリョはヴァリニャーノの決定を承認し、軍需物資の調達を禁止、保有する武器弾薬を売却しました。
イエズス会は武装解除し、秀吉との衝突を回避する道を選んだのです。
参考文献:
高瀬弘一郎(2015)『キリシタン時代の研究』岩波書店
茂木誠(2018)『世界史とつなげて学べ 超日本史 日本人を覚醒させる教科書が教えない歴史』KADOKAWA
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