藤堂高虎は、津城や伊賀上野城・今治城・宇和島城など、多くの城の改修や縄張りで有名です。
黒田孝高、加藤清正と並んで「築城三名人」の一人と称されています。また主君を7回も変えたことでも有名です。
男性の平均身長が155~157cmほどだったと言われている戦国時代において、高虎は190cmとかなりの高身長だったそうです。
さらに、「ウサギ耳のついた兜」をかぶっていたとされ、戦場でもひときわ目立つ存在だったでしょう。
主君を次々と替えた藤堂高虎
藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。
幼いころから体格がよく性格も荒かったと言われています。
高虎は最初は浅井長政に仕え、姉川の戦いで佐和山城主・磯野員昌の部隊にて初陣。
磯野隊はなんと織田信長の本陣近くまで迫り、当時14歳ほどだった高虎も武功を挙げました。その後の宇佐山城攻めでも活躍し、浅井長政から感謝状と脇差を贈られています。
この時の高虎は、まだ足軽でした。
浅井家が織田家に亡ぼされた後は浅井の旧臣・阿閉貞征に仕えますが、結局浪人となり、その後は佐和山城に入城した織田信澄に仕えましたが、母衣衆と喧嘩するなど長続きはしませんでした。
このように主君を次々と変えていた高虎でしたが、初めて腰を落ちつけて仕えることになったのが豊臣秀吉の異父弟・豊臣秀長でした。
豊臣秀長の家臣時代
豊臣秀長は、戦に参加する秀吉にかわり城代を務めることが多かった人物で、1576年に藤堂高虎を家臣にしています。
当初、高虎は300石で秀長に仕官していますが、その後1577年に秀長が岩洲城・竹田城を攻めた際に、高虎は竹田城へ奇襲をかけて武功を挙げ、1000石加増され足軽大将となりました。
その後も三木合戦で2000石の加増を受け、秀長の領国・但馬小代一揆平定の際には但馬国の土豪を討った功績により3000石の加増を受けて鉄砲大将に昇格、賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政を銃撃し、小牧・長久手の戦いでも武功を挙げます。
紀州征伐や中国攻めでも領地を加増され、ついには一万石の大名となりました。
藤堂高虎と築城
紀州征伐の後、猿岡山城・和歌山城の築城にあたり普請奉行に任命されます。これが高虎最初の築城と言われています。
猿岡山城は、紀州征伐後にもともと粉河寺が寺の防衛のために築いた城に、高虎が入城して改築した城です。
南側を流れる中津川を堀として代用した山城でした。
高虎が伊予国宇和島に移封された後は移城となりました。現在は曲輪のみが残っています。
宇和島城は連郭式平山城で、現在見られる天守は重要文化財にも指定されていますが高虎が築城した当時のものではありません。
この天守は後に城主となった宇和島伊達家のものですが、縄張りは藤堂高虎が施したものを活用していると言われています。(※縄張りとは、城の構造をわかりやすく示した図面のこと)
この城は中世の縄張りと近世の縄張りの両方が見られ、東側には海水を引き込んだ水堀があり、西側は海に接していたため水城としての面もあります。
現在の天守は層塔型(そうとうがた)ですが、高虎が築城した際には望楼型(ぼうろうがた)天守だったようです。
この時の技術が、後に今治城や亀山城などの層塔型天守に生かされています。
それまでの天守は望楼型が主流でしたが、工期が長くかかることや構造的な欠陥が多く、後に高虎が層塔型天守を江戸城をはじめとする城郭普請に採用したことで、近世における天守建築の主流となりました。
その他にも今治城や伊賀上野城、江戸城・津城・丹波亀山城など多くの城の縄張りや改修・改築を行い「加藤清正」「黒田孝高」と並び「築城三名人」の一人に数えられるようになります。
藤堂高虎と徳川家康
高虎はもともと徳川家康と親交がありましたが、秀吉が死去する直前にはさらに距離を縮めていました。
1600年、家康が上杉景勝を征伐するために出陣すると(会津征伐)高虎も従軍します。
関ヶ原の戦いでは、西軍の脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して東軍への内応工作を行ったほか、毛利輝元の策動により起こった一揆を鎮圧しました。
これらの軍功により家康から宇和島8万石を安堵され、新しく今治城12万石が加増されました。これにより、高虎は従弟の藤堂良勝を宇和島城に城代として置き、自身は今治城へと移ります。
その後、高虎は徳川家の重臣となり、江戸城改築などでも功をおさめ、1608年には伊賀上野藩主・筒井定次の改易に伴って8月に伊賀上野城へ入り大改築を行いました。
筒井氏時代の上野城は大坂城を守る役割を担っていた城でしたが、徳川方の高虎は改築の際に大坂城を攻めるための城として築城しました。
縄張りも本丸を西側に拡張し、深溝を掘り、根石からの高さが約30mという高石垣を巡らせて南に大手を作りました。
この高石垣は「宮勾配」と呼ばれ、ほぼ直線で立ち上がって反りをもたない石垣です。
この「宮勾配」は今治城や丹波篠山城などでも見られ、藤堂高虎の築城の大きな特徴と言えるでしょう。
大坂冬の陣・大坂夏の陣ではともに徳川方として参戦し、河内方面の先鋒として豊臣方の長宗我部盛親と戦いますが、長宗我部隊の猛攻を受けて藤堂良勝や藤堂高刑など、一族をはじめとした600人が死傷しています。
大坂夏の陣で徳川軍が勝利し豊臣家が滅亡すると、高虎はこの功績により従四位下に昇任し、家康死去の際には枕元に侍ることを許されるほどの地位となりました。
終わりに
「築城の名手」としてよく知られている藤堂高虎ですが、足軽から大名にまで成り上がった人物だけあって、彼の遺骸は体中傷だらけでした。
玉疵・鑓疵もあり、右の薬指と小指はちぎれ、左の中指は一寸ほど短くなっていたそうです。
主君を何度も変えていたことから要領の良さそうな印象もありますが、常に体を張って戦場で命がけで戦い続けていたことがわかる逸話です。
参考 :
西ヶ谷恭弘「定本 日本城郭事典(秋田書店)」
藤田達生「藤堂高虎論(塙書房)」
藤田達生「江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―(講談社)」
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