戦国時代最強の武将は誰かと問われれば、織田信長、上杉謙信、武田信玄など、数々の名将の名が挙がるだろう。
では、戦国時代「最弱」の武将は誰なのであろうか。
1番に名が挙がるのは、常陸国(現在の茨城県)の戦国大名であった小田氏治(おだ うじはる)であろう。
小田氏治は稀代の戦下手といわれ、通説では居城であった小田城を9度も落城させたことで知られている。
しかし、9度落城させたということはつまり、氏治は1度や2度の落城で落命することなく、8度の小田城奪回を成功させている人物でもあるのだ。(※具体的な落城や奪回の回数については諸説あり)
奇しくも同年代の戦国武将、織田信長と比較され、「弱い方の“おだ”」「じゃない方の“おだ”」と揶揄されることもあるが、戦下手であったはずの氏治はなぜ、度重なる落城に屈せず何度も城を奪回できたのだろうか。
今回は戦国時代最弱にして不死鳥とも呼ばれる武将、小田氏治について掘り下げていきたい。
小田氏治の出自
小田氏治の生家である小田家は、藤原鎌足や藤原道兼の流れを汲む、常陸国筑波郡小田邑(現在の茨城県つくば市小田)を本拠地とした宇都宮氏流八田氏を祖とする一族で、室町時代には関東八屋形を名乗ることが許された名家であった。
小田氏の始祖である八田知家(はった ともいえ)は、『鎌倉殿の13人』で描かれた「十三人の合議制」の一員であり、小田城を築いた人物でもある。
知家の代より小田氏の当主の多くは、常陸国守護を務めていた。
氏治の父である小田政治(おだ まさはる)は、小田家第14代当主として小田氏を常陸国随一の戦国大名となるまで盛り立てた人物で、小田氏の中興の祖と呼ばれる名将だ。
氏治は小田家の後継ぎとして、関東管領上杉・古河公方足利連合軍に味方した父の指揮下に入り、10代半ばの頃に初陣に臨んでいる。
氏治にとって初めての戦であった「河越城の戦い(河越夜戦)」は、「厳島の戦い」「桶狭間の戦い」と並んで戦国三大奇襲戦に数えられている。
勝ち戦であったはずの「河越城の戦い」で小田氏が与した上杉・足利連合軍は北条氏に大敗し、政治と氏治は命からがら常陸に逃げ帰った。
それから3年後の1548年、小田家の勢力を拡大したものの敵も多く作った父・政治が56歳で死去し、氏治は小田氏が衰退し始めた10代後半の頃に、家督を継いで小田家当主となったのである。
戦乱の世で小田城落城と奪回を繰り返す
氏治は小田家当主となったその年に、真壁城主・真壁久幹(まかべ ひさもと)の寝返りに合うなどの憂き目を見ながらも、1555年に常陸太田城主の佐竹義昭(さたけ よしあき)と共に、父の代からの宿敵であり、相模の北条氏康と通じていた、結城政勝(ゆうき まさかつ)を攻めた。
しかし、その翌年に北条の支援を受けた結城政勝に領内に攻め入られて「海老ケ島の戦い」が勃発し、氏治は海老ケ島城に加えて居城である小田城まで奪われ、土浦城に逃げた。
これが、小田城1度目の落城である。
この時は北条氏康が常陸進出を目指していたため、常陸北部を治める佐竹義昭に対抗すべく氏治と和解した。これにより、その年の8月、北条氏の支援を失った結城勢を追い払い、小田城の奪回に成功したのである。
氏治が1度目の小田城奪回を成功させた翌年の1557年、もしくは翌々年の1558年、佐竹義昭が下妻城の城主であった多賀谷政経(たがや まさつね)とともに、小田家の家臣が立てこもっていた海老ケ島城を攻めてきた。
すぐさま氏治は下妻城を攻撃したが、多賀谷政経を助けに来た佐竹義昭に「黒子の戦い」で敗北して、またもや土浦城に逃れ、小田城を奪われた。これが2度目の小田城落城である。
1559年、土浦城の城主で氏治の家臣であった菅谷政貞(すげのや まささだ)が、小田城を奪回する。
同年、宿敵であった結城政勝が死没し、その子である明朝は病に臥せっていたため、氏治はこれを好機ととらえて結城城を攻めたが、かつて小田氏を裏切って結城氏方についていた真壁久幹の後継者・真壁氏幹(まかべ うじもと・通称「鬼真壁」)に阻まれ敗退する。
翌月には結城氏に北条城・海老ケ島城を奪われ、さらに翌年の1560年、小田城も落とされ3度目の落城となる。
しかしその年、氏治に運が巡ってきた。
軍神の異名を持つ越後の上杉謙信(この頃の名は長尾景虎)が、北条氏康を討伐するために関東へ出陣してきたのだ。謙信方についた氏治は謙信の威光によって諸大名と和解を果たし、失った領地と小田城を取り戻すことができた。
氏治は謙信に従ったが、政勝亡き後に結城家当主となった結城晴朝(ゆうき はるとも)は、先代の時代から変わらず北条氏康と結んでいた。氏治は佐竹義昭や小山家新当主となった小山秀綱(こやま ひでつな)とともに、1561年1月に結城城を攻めて勝利した。
同年に謙信が、北条氏康討伐のために関東諸将たちを率いて小田原城を攻める。
謙信に忠誠を誓った氏治もこれに参陣したが、小田原城は陥落できず謙信は越後へと帰ってしまい、氏治や佐竹・小山軍も小田原から撤退した。
この「小田原城の戦い」の翌年の1562年、氏治はあろうことか上杉謙信と敵対している北条方へ寝返る。
そして、上杉方の佐竹義昭の支配下にあった大掾貞国(だいじょう さだくに)に「三村の戦い」で勝利し、結城氏や那須氏と組んで佐竹義昭に対抗した。
1564年、氏治の背信が上杉謙信に訴えられ、氏治に上杉軍の刃が向いた。
上杉軍は氏治の予想をはるかに上回る速さで小田領に到達し、小田氏は体制を整えることができず「山王堂の戦い」で大敗を喫して小田城は落城し、氏治は藤沢城へと逃れる。
これが4度目の小田城落城となった。
その後も繰り返された小田城奪回と落城、そして大名小田氏終焉へ
その後も小田城奪回と落城は繰り返され、氏治は通説では小田城を9度も落城させたとされる。そしてそのほとんどは、氏治の宿敵となった佐竹氏との戦いが原因だった。
9度目の落城は1573年(1569年という説もある)に起きた「手這坂の戦い」の折で、氏治が佐竹義重や真壁氏幹、太田資正(おおた すけまさ)らが率いる軍勢との戦いの末に、大敗を喫したことが原因だ。
手這坂で敗走した氏治は小田城へ逃げ込もうとしたが、既に小田城は先回りした佐竹軍の手に落ちており、氏治は仕方なく土浦城に落ち延びた。
そしてこれ以降、氏治は何度も小田城奪回を試みたが望みは叶わなかった。
その後、豊臣秀吉が天下を取り、氏治が小田原征伐に参陣しなかったこと、豊臣方の佐竹氏と敵対していたことから、秀吉の意にそぐわぬ大名とみなされて所領をすべて没収され、大名家としての小田氏は滅亡した。
その後の1591年、氏治は奥州巡察に向かう秀吉の後を追って会津へ赴き、浅野長政を通じて秀吉に謝罪を申し入れ、秀吉は氏治の謝罪を受け入れた。
そして氏治は、徳川家康の次男で秀吉の養子でもあり、氏治の娘を側室としていた結城秀康の客分として秀吉から三百石を与えられ、その後は秀康に与力として仕えた。
晩年は秀康の移封に従って越前に移り、68歳もしくは71歳の時に、その波乱の人生を終えたという。
小田氏治は、なぜ何度も小田城を奪回できたのか
小田氏治にまつわるエピソードとしては、やはり幾多の落城に注目が集まるが、忘れてはならないのが奪回にも何度も成功しているという点だ。「戦下手」と評される氏治がなぜ戦で命を落とさず、幾度も小田城を取り戻すことができたのか。
それは、氏治の諦めが早かったことと、人々に慕われる性分だったことが主な理由とされている。
氏治は先祖代々受け継いできた小田城に執着していたが、小田城の守りは弱く、さらにいざ戦いの場で不利になると、すぐに敗走して他の支城に逃げ込んでいた。氏治はどの戦においてもその場での勝利にはこだわらず、1度敗走して体制を整えてから小田城を奪回するという道を選んでいたのである。
また、小田家家臣や小田城下に住む領民から氏治が絶大な支持を得ていたことも、氏治が小田城を何度も奪回できた要因とされている。
領主としての氏治に関しては、特に目立つ功績の記録が残っていないにもかかわらず、氏治は家臣や領民から非常に人気のある主君だったという。小田家が常陸国で代々続く名家だったことを加味したとしても、不思議なほど人々に慕われていたのだ。
小田領の領民は、氏治が戦に敗けて他の武将が小田城主となると、とたんに姿を隠してしまい年貢を収めず、氏治が小田城に帰ってくるとすぐに戻ってきちんと年貢を収めたのだという。
さらに氏治が小田城奪回のために召集を呼びかければ、5000人以上もの領民がすぐさま兵として集まることもあった。
小田家の家臣たちも氏治に対して忠実で、何度も敗走する主君を排斥しようとはせず最後まで支え続けた。氏治は戦国最弱の武将といわれるが、身近な人物から最も慕われる武将だったといっても過言ではないだろう。
『関八州古戦録』によれば、氏治の宿敵で何度も小田城を陥落した佐竹義昭も、上杉謙信宛ての書状にて、「氏治は近年弓矢の道は衰えたものの、源頼朝以来、名望のある豪家であり、氏治もまた優れた才覚があり、譜代の家人も覚えの者が多く、とにかく家名を保っている」と評価している。
下剋上がまかり通った戦国時代において、家臣や仲間の裏切りによって命を落とすことも珍しくなかった。
天下を取る目前で死したもう一方の「おだ」である織田信長は、幾人もの家臣に裏切られ、最期には腹心であった明智光秀に裏切られ、その生涯を終えたことは誰もが知る処である。
最弱の戦国武将・小田氏治は、決して戦上手ではなかったが、何度敗走しても不死鳥のように返り咲く、稀代の求心力と不屈の精神を備えた武将だったと言えるだろう。
参考文献
小丸俊雄(著)『小田氏十五代―豪族四百年の興亡 (ふるさと文庫―茨城) 』
長谷川ヨシテル (著) 『ポンコツ武将列伝』
野村亨 (著)『常陸小田氏の盛衰』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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