小牧・長久手の戦いにおける和睦条件として、羽柴秀吉の元へ養子に出された徳川家康の次男・於義伊。
実質的には何かあったら殺されてしまう人質ですが、実子のいなかった秀吉は於義伊を大歓迎します。さっそく元服させて、羽柴秀康と改名させました。自分の名前から秀の字を与えるくらい、彼を可愛がっていたのですね。
やがて秀吉に嫡男・捨丸(鶴松)が誕生すると用済みとなり、関東の名門である結城家の養子に出されてしまうのですが、ともあれ殺されることは免れています。
……そんな秀康の運命を、実は他の者が背負う手筈となっていたことは、あまり知られていません。
今回は家康が秀吉への人質に出そうとしていた異父弟・松平定勝を紹介。
なぜ彼に白羽の矢が立ったのか、そしてその運命を免れたのでしょうか。
小牧・長久手の合戦で武功を立てる
定勝は久松佐渡守俊勝が四男にして、東照宮異父の御弟なり。定勝が生れしとしの三月父が阿古居の邸に渡御のとき、母にいだかれて御前に出、兄因幡守康元等とおなじく御同姓に准じ御称号を賜ふ。事は松平因幡守康盛が譜にみえたり。
※『寛政重脩諸家譜』巻第五十四 清和源氏(義家流)松平
松平定勝は久松俊勝の四男として、永禄3年(1560年)に誕生しました。誕生月日は不詳ながら、3月に家康と対面。兄の久松康元ともども松平の苗字を与えられているため、1~3月の生まれと判ります。
●定勝童名長福 三郎四郎 隠岐守 従五位下 従四位下 左少将 母は水野右衛門大夫忠政が女傳通院御方。永禄三年尾張国智多郡阿古居に生る。天正十二年六月十六日尾張国蟹江城をせめらるゝのとき、先登して御感をかうぶる……
※『寛政重脩諸家譜』巻第五十四 清和源氏(義家流)松平
幼名は長福、元服後の通称は三郎四郎。隠岐守を称し、のち従四位下・左近衛少将に叙せられました。母親は水野忠政の娘である伝通院。於大の方として有名ですね。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは尾張の蟹江城を攻める際、先駆けの武功を立てて家康から賞賛されました。
……十月豊臣太閤東照宮によしみをむすび、御親族のうちをやしなはむ事を請。ときに老臣等相はかりて定勝を送らるべしとまうせしかば、其儀にしたがひたまひ、すでに行装をとゝのへ、これを促さるるところ……
※『寛政重脩諸家譜』巻第五十四 清和源氏(義家流)松平
「さて、人質には誰を出そうか……」
秀吉からの要求に頭を悩ませる家康。家臣たちもなかなか答えが出せません。
現時点における家康の男児は以下の通りです。
(長男・松平信康は既に死亡)
次男・於義伊:せっかく11歳まで育てたし、出来れば出したくない。
三男・長丸(徳川秀忠):西郷局(於愛の方)が生んだ嫡男6歳。絶対出したくない!
四男・福松(松平忠吉):同じく嫡男5歳。こっちも出したくない!
側室の子だから、正直あまり可愛がって来なかった於義伊。ですが、自分の血を引いているので、やっぱり人質には出すのは惜しいのが人情というものです。
「そうだ、三郎四郎(定勝)殿はどうだろうか」
家臣の一人が言い出しました。
「うむ。殿の血は引いていないが、同じ母親から生まれたご兄弟であらせられるから、猿めも文句は言えまいて」よし決まった、それがよかろう……という訳で、家康はすぐさま定勝を呼び出します。
間一髪で現れたのは……
定勝「え、いきなりですか!?」
家康「うむ。羽柴殿は織田家の政権を継承し、今や日の出の勢い。その跡継ぎとなれば、もはや天下を譲られたも同然ぞ」
家臣甲「左様。本来ならば殿の若君たちを遣わしたかったところですが、やはり天下の舵取りともなりますと、相応の人生経験も必要でしょう」
家臣乙「先の合戦(蟹江城攻め)においても先登の大功を立てられた三郎四郎殿なれば、羽柴殿も一目置かれること間違いございませぬ」
定勝「少し考えさせていただくことは……」
家康「いやいや、善は急げだ。今日は御あつらえ向きに日取りもよいことだし、さぁさぁ……」
とか何やかんや口車に乗せられて、定勝は人質もとい養子入りの話を承諾。取り急ぎ旅装を整え、いよいよ出立というその時でした。
……傳通院の御方きかせたまひ、先に源三郎勝俊武田家の人質をのがれかへるのとき、山中雪ふかくして足の指を■さんとす。今にいたるまでこれをおもふにしのびず。しかのみならず、君他国にまします時は、我定勝をもつて力とす。今かれを他につかはさむ事、努々かなふべからずと、かたく辞したまふにより、其事つゐにやみぬ。これによりて定勝しばらく御不快を得るといへども、後やうやく恩顧を蒙る……
※『寛政重脩諸家譜』巻第五十四 清和源氏(義家流)松平
「殿っ!」
家康を叱りつけたのは、伝通院の御方。実母である於大の方です。
「話は聞きました。三郎四郎を人質に出すこと、断じてなりませぬ!」
「いえ母上、これは羽柴殿への養子であって……」
母親に叱りつけられ、家康はしどろもどろ。
「嘘おっしゃい、こんなの誰がどう見たって人質じゃありませんか。あなたが以前、源三郎(松平勝俊。のち康俊)を武田の人質に出した時、源三郎を悲惨な目に遭ったのを覚えているでしょう。あの時源三郎を人質に出さなければと、どれほど後悔したか分かりますか?」
武田領からの逃亡中、険しい山道で凍傷にかかってしまい、足の指をすべて落としてしまった勝俊。それを言われると、家康は返す言葉もありません。
「あなたが戦さに行っている時、三郎四郎は私にとってかけがえのない心の支え。それを敵方の人質に出してしまうことなど、断じて許すわけには参りません!」
「……承知しました」
あまりの剣幕に圧倒された家康は、しぶしぶ定勝の養子入りを断念したのでした。
終わりに
かくして秀吉の養子入りを回避できた松平定勝。しかし母親に叱られたことがよほど気に入らなかったのか、家康はしばらく定勝を遠ざけたそうです。大人げありませんね(後にちゃんと復帰しました)。
NHK大河ドラマ「どうする家康」に登場することはないでしょうが、その後も数々の活躍を魅せた松平定勝。また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第一輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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