どうする家康

これぞ武士道!鳥居元忠を討った雑賀重次と元忠遺児・鳥居忠政の感動的な交流【どうする家康 外伝】

時は慶長5年(1600年)8月1日、鳥居元忠の守る伏見城が石田三成らの大軍によって攻め落とされてしまいました。

……明れば八月朔日、城中忽に返忠の者出来て、本城に火かゝり、敵こゝかしこ尓入る、元忠が手のもの百三十七人戦死し、残る所僅に四十七八人、家子郎従、はや御自害あるべしと勧む、元忠あざ笑て、いやいや思ふ子細あり、自害はすべからず、かけ引き自在ならねども、いでさらば、最期の軍して、汝等に見せんずるぞとて、城中より切て出で、思ふ様に戦ひ、年積て六十二歳、秀頼の足軽大将雑賀孫市重次が為に討れけり、……

※『藩翰譜』第四中 鳥居

【意訳】伏見城内からは寝返りが続出。やがて火の手が上がり、敵の大軍があちこちから乱入してきました。
元忠らは奮戦するも討死が相次ぎ、残った者はわずかに47、8人ばかり。
「最早これまで。かくなる上は、ご自害あそばされませ」
家臣たちは主君を敵に辱めさせまいと勧めましたが、元忠はこれを辞退します。
「我らはあくまでも時間稼ぎ。自分の名誉よりも任務を優先させてこそ死に甲斐もあろうぞ。どれ、最期の大暴れをそなたらに見せてやろう」
かくして鳥居主従は敵中に殴り込み、元忠は雑賀重次(孫市)に討ち取られたのでした。享年62歳。

鳥居元忠の最期。歌川芳虎「後風土記英勇傳 鳥居彦衛門尉元忠」

……ということがあってから、しばし歳月が流れました。

孫市は元忠が最期に用いていた鎧兜や大小の太刀などを戦利品として持っていたものの、これを返還しようと思い立ちます。

そこで元忠の遺児・鳥居忠政へ使者を発したのでした。

「怨んではおらんのか?」孫市の問いに、忠政は……。

「ほぅ、雑賀殿がのぅ」

申し出を受けた忠政は大いに喜び、亡き父の形見を迎え入れようとこれを快諾します。

「然らば、持参いたしまする」

ということで話はまとまり、さっそく孫市は一式持って鳥居家を訪問しました。

「これはこれは、ようこそおいで下さった!」

果たして当日。忠政はよほど待ちきれなかったのか、門の外まで出迎えたと言います。

「さぁさぁどうぞ、奥へお入り下され……」

意外な大歓迎を受けて、孫市は戸惑ったことでしょう。

(なぜ父の仇を、こうも手厚く迎えるのか……)

返還された甲冑(イメージ)

居間に並べられた元忠の遺品たち。甲冑に太刀に、どれもこれも懐かしい品々を前に忠政は涙を流して喜びました。

「あぁ、父上にお会いできたようじゃ……」

孫市への怨みどころか、父と再会できたのは孫市のお陰とばかり感謝する忠政。居たたまれずに、孫市は口を開きます。

「怨んでおいでではないのか?」

孫市の問いに、忠政は答えて言いました。

「父を喪うて、悲しくないと申せば嘘になろう。しかし孫市殿。我ら武士にとって、戦さ場で身命を投げ打つ以上の名誉はござらぬ」

「……左様」

「互いに殺し殺されるは弓取る習い。よい死に場所を得られたと、父も冥土で喜んでおりましょう」

元より互いに怨むところはなく、時により主命を奉じて戦ったまでのこと。

ならば勝負の結果がどうであれ、相手を怨む筋合いではありません。

勝つも誉れ、負けるもまた誉れ。天地神明に恥じることなく武士をまっとうできたのですから、むしろ喜ばしいことです。

忠政の心意気に、孫市が感服したのは言うまでもありません。

「時に、これらの形見にございますが、どうか貴家にてご保管いただけませぬか」

せっかく返還された形見を、忠政は辞退します。

「伏見の武勲を、孫市殿の名誉として子々孫々に至るまで語り継いで下され。さすれば、我が父は貴家においても生き続けることと相成りましょう」

鳥居元忠ほどの猛将を、雑賀重次は討ったのだから。

忠政の申し出を、孫市は快諾したということです。

終わりに

鳥居忠政(画像:Wikipedia/Public Domain)

……むかし忠政が父元忠を打たりし雑賀孫市重次は其後水戸中納言家にぞ侍らひける、ある時、重次中たちをもて、忠政が許へ云ひ送りけるは、重次むかし元忠の御最期尓参りあひ、其時の御物具を家尓傳へ訖んぬ、先考の御形見尓御覧ぜんため尓返し参らせたくこう存ずれといふ、忠政大き尓悦び、なからん父が形見、これ尓過べからず、給て一目見候ばやと答ふ、重次みづから携て、彼館尓向ふ、忠政門外に出迎て、重次を奥の居間へ請ず、亡父に再ひ対面の心地し侍るとて、涙を流し、ありし甲冑太刀、押板の上にかきすゑて、是を拝す、斯て今日重次を饗せしやう、誠に善盡し美盡しけり、明日重次がもとに使者を立て、昨日の見参を禮謝す、また重次が御芳志に依て、父が最後に帯せし物具、再ひ見て侍る事、返す返すも悦び候ひぬ、忠政が家に傳へし、父が形見に見るべき者猶少からず、見苦しうは候へども、此物具重次の御家に留て、御名誉と共に、御子孫に傳へられん事、弓矢取ての道に候、能き御遺誡にもや候べきとて、甲冑太刀刀悉く返しぬ、夫より後、毎年の冬、綿厚く入たる衣四五領、使者にて持たせ、遙々と常陸国に送り遣し、音信を通ずる事、忠政一期の程、終に怠らず、水戸殿此由を聞召、大に感じ玉ひ、年毎に忠政が使者の来るべき期に臨ては、必ず道梁をも修理せさせ、重次にも、客の、まうけすべき魚鳥やうのもの給ひけり、何れも何れも年々に止む事なき事に候ひけるよし、鳥居が家の古き侍の申せしを承りぬ、……

※『藩翰譜』第四中 鳥居

以上、鳥居元忠を討った雑賀重次と、鳥居忠政の友情エピソードを紹介してきました。

その後も両家の交流は絶えることなく、孫市の主君・徳川頼房(家康十一男で御三家・水戸藩初代)を感動させたそうです。

互いに命懸けで殺し合うからこそ、生まれる絆もあることを教えてくれますね。

後世「三河武士の鑑」と賞賛された鳥居元忠。英雄の魂は、数百年の歳月を越えて私たちの胸を打ちます。

※参考文献:

  • 『藩翰譜 第四中-第四下』国立国会図書館デジタルコレクション
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角田晶生(つのだ あきお)

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