かつて、北の雄大な自然の中で暮らしていた先住民族・アイヌ。
アイヌは文字を持たず、語り継ぐことで独自の言語と文化を守り続けてきた。

画像 : アイヌ民族 public domain
自然と共生し、多神的な世界観をもって生活していた彼らは、明治期以降、和人(日本人)による同化政策のもとで差別を受け、生活の基盤とともに文化も脅かされていった。
中でも、アイヌ文化の象徴ともいえる口承文芸は、担い手の減少とともに失われる危機に瀕していた。
こうした状況の中で、アイヌ語による神謡(カムイユカラ)を初めて文字として記録し、後世に伝えるという偉業を成し遂げた若きアイヌ女性がいた。
知里幸恵(ちり ゆきえ)である。
彼女は言語学者・金田一京助との出会いを契機に、アイヌ文化を記録し伝えることに生涯を捧げる決意を固めた。
今回は、19歳で短い生涯を終えながらも、民族の言葉と物語を未来へとつないだ知里幸恵の生涯と、その偉業をたどる。
目次
滅びゆくことを強いられた、神とともに生きてきた民族

画像 : 知里幸恵 Yukie Chiri (1903-1922) public domain
明治36年(1903)、知里幸恵は、父・知里高吉と母・ナミの間に北海道幌別郡(現・登別市)で生まれた。
アイヌの人々は、北海道をはじめ南樺太や千島列島などに暮らしていた先住民族であり、自然に深く感謝しながら生活していた。彼らは文字を持たなかったが、語り継ぐことによって言葉や文化を守り、後世に伝えてきた。
とりわけ、『ユカラ(英雄叙事詩)』や『ウウェペケレ(昔話)』といった口承文芸は、アイヌ文化の中核をなす存在であり、それらを語る者は「ユーカラクル」と呼ばれた。
幸恵の祖母も名高いユーカラクルであり、幸恵は幼い頃から祖母の語る物語に親しみながら育った。
ユカラのなかでも、カムイ(神)を主人公とするものは『カムイユカラ(神謡)』と呼ばれた。そこに登場する神々とは、動物や植物、水、火といった自然の存在から、家屋や神棚に至る生活のあらゆる事物を含む。
そんなカムイユカラは、アイヌが多くの神とともに暮らしてきたということを、いきいきと伝える物語であった。
しかし、こうした文化は明治以降、急速に失われつつあった。

画像 : 1873-1879年の庁舎 – 北海道開拓の村(外観再現) public domain
明治2年(1869)、明治政府はアイヌの人々が代々暮らしてきた土地である蝦夷地を『北海道』と定め、一方的に開拓を始めた。
政府はアイヌの人々を日本人に取り込もうとする『同化政策』を進め、アイヌの狩猟採集の生活を農業中心に変え、アイヌの文化や言葉を否定し、アイヌ語の名前も和人(日本人)風に改名させたりした。
明治32年(1899)、政府は『北海道旧土人保護法』を制定したが、それは名ばかりのものであった。
アイヌの人々の生活は苦しく、差別や偏見に苦しみ続けることとなったのである。
差別を受け苦しむも、アイヌ文化を後世へ伝える決意をする
6歳の頃、幸恵は祖母とともに、旭川に住む伯母・金成(かんなり)マツのもとに身を寄せた。
金成マツは、アイヌの口承文芸・ユカラの伝承者、キリスト教伝道師として活動しており、信仰と教育に熱心な人物であった。

画像 : 知里幸恵(左)と金成マツ(右) public domain
やがて、幸恵は和人の子どもたちも通う尋常小学校に入学するが、間もなくアイヌ児童のみを対象とした分教場へと移籍した。
教師は和人であり、子供たちを優しく指導する人もいたが、ひどい教師だと明らかに指導を超えた暴力を振るうことがあった。
それでも幸恵は勉学に励み、尋常小学校を優秀な成績で卒業した。
その後、幸恵は北海道庁立の高等女学校を受験したが、アイヌの子であるためか、合格できなかった。だが、諦めることなく進学を続け、14歳で女子職業学校に109人中4位という成績で合格を果たす。
ところが、そこでも差別はなくならなかった。
同級生からは「ここはあんたの来るところじゃない」と心ない言葉を浴びせられた。
理解ある友人もいたが、見えない壁が常に彼女の前に立ちはだかっていたのだ。
そうした折、1918年8月、東京帝国大学助教授で言語学者の金田一京助(きんだいち きょうすけ)が、宣教師バチェラーの紹介を受けて旭川を訪れて来た。

画像 : 金田一京助 public domain
金田一は、アイヌ文化の研究のために、有名なユーカラクルである幸恵の祖母を訪ねてきたのだった。
研究のため、祖母の語るユカラを熱心に記録する金田一は、幸恵が今まで出会ってきた和人とは全く違っていた。
幸恵は「私たちのユカラは、そんなに価値があるものなのでしょうか?」と金田一に聞いた。
すると金田一は「アイヌの伝承は貴重であり、失ってはならないものです。アイヌであることを誇って下さい」と熱を込めて話した。
この出会いは、長く差別と疎外に苦しんできた幸恵にとって、はじめて「アイヌであることに誇りを持ってよいのだ」と確信を得た瞬間であった。
こうして、幸恵は自らのアイデンティティと向き合い、アイヌ文化を後世へと継承する決意を固めたのである。
アイヌ文化を初めて文字で表現し、『アイヌ神謡集』出版のために上京
大正9年(1920)3月、学校を卒業した幸恵は、言語学者・金田一京助との文通を続けていた。
金田一は、アイヌ語による口承文芸を後世に残すため、幸恵にノートを送り、ユカラをローマ字で記録してもらいたいと依頼した。
そして幸恵は伯母からローマ字を習い、ユカラなどのアイヌ語の発音をローマ字で表記し、それに和訳をつけてノートに記した。
翌大正10年(1921)、書き上げたノートを金田一へ送ると、金田一はその優れた記録に感激した。
アイヌ語は日本語のようにはっきりとした母音で終わるとは限らない。
例えば『ユカラ』は従来の表記方法では『yukara』と書かれていた。しかし、幸恵はアイヌ語の発音をより正確に表すために『yukar』と記し、自分で表記方法を考えた。
彼女のアイヌ語の聞き書きは正確であり、訳文も的確であるうえに美しい日本語で表現されていたのだ。
まもなく、金田一から「このノートを出版したい」という申し出があり、幸恵はそれを受け入れた。
この書物は後に『アイヌ神謡集』と題されることになる。

画像 : アイヌ神謠集 初版 public domain
その頃、幸恵はアイヌの青年・村井曾太郎(むらい そうたろう)と出会い親しくなった。
次第に、互いの家を行き来するようになり、2人は婚約をした。
村井は、『アイヌ神謡集』の出版準備のために幸恵が東京へ行くことに賛成し、彼女が帰郷するまで待つと約束したという。
そして大正11年(1922)5月、幸恵はついに上京し、金田一京助の家に寄宿することとなった。
このとき彼女は19歳。使命感と希望を胸に、愛する人や家族、故郷を後にして東京での生活を始めたのである。
命をかけてアイヌ文化を伝える
上京した幸恵は、言語学者・金田一の家に寄宿しながら、『アイヌ神謡集』の刊行準備に取り組んだ。
日中は、金田一が不在の間に原稿の手直しを進め、英語の復習や、金田一の研究のためのアイヌ語の整理作業にも尽力した。
夜には、金田一にアイヌ語を教える一方で、英語を学び、互いに学問を教え合う日々を送っていた。

画像 : 知里幸恵。この写真は、『アイヌ神謡集』の編集を終えた直後で、彼女が死去する2ヶ月前の1922年(大正11年)7月に滞在先の東京市本郷区・金田一京助の自宅庭で撮影された。public domain
ところが、もともと心臓が弱く慣れない土地で無理をおして作業に打ち込んでいた幸恵は、徐々に体調が悪化していった。
疲労と緊張のなかで無理を重ねた結果、体調は次第に悪化し、やがて心臓発作を起こすようになった。8月30日の早朝、激しい発作に襲われた幸恵は、一命を取りとめたものの、すでに心身は限界に達していた。
9月13日、幸恵のもとに『アイヌ神謡集』の校正用原稿が届き、彼女は連日、最後の確認作業にあたった。
そして、5日後の9月18日、全ての校正作業を終えたその夜、再び心臓発作に襲われ、帰らぬ人となった。
享年わずか19であった。
彼女の死のわずか2ヶ月前、出版社の関係者が「著者がアイヌの女性であることが知られると、偏見によってつらい思いをするのではないか」と懸念を示したことがあった。
それに対して幸恵は、日記にこう書き記している。
「アイヌであることを隠して何になりましょう。私はアイヌであることを喜びます。おお愛する同胞よ、愛するアイヌよ。」
彼女の思いは、生涯を通して一貫していた。上京中も常に故郷の家族や仲間のことを想い続けていたのである。
幸恵の死から1年後の大正12年(1923)8月、『アイヌ神謡集』は郷土研究社から刊行された。
カムイユカラを含む13篇が、原文のローマ字表記と日本語訳の並記という形式で収められ、冒頭には「自序」と題した幸恵自身の序文が置かれた。
アイヌ語を初めて体系的に文字に写し取り、民族の精神を言葉として記録したこの書は、当時の日本社会に強い衝撃を与え、アイヌ文化への再評価の契機となった。
それは、わずか19年の生涯を懸けて、ひとりのアイヌ女性が成し遂げた偉業であった。
参考 :
知里幸惠「アイヌ神謡集」岩波文庫
金治直美「知里幸恵物語」PHP研究所
小杉みのり「時代をきりひらいた日本の女たち」岩崎書店
ひきの真二「知里幸恵とアイヌ」小学館
文 / 草の実堂編集部
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