朝ドラ「あんぱん」の第29回では、出征前夜、不器用にお互いの思いを打ちあける豪(細田佳央太)と、蘭子(河合優実)の姿が描かれました。
昭和12年に日中戦争が始まり、太平洋戦争へと戦火が拡大する中、多くの若者が徴兵されました。
彼らは中国、東南アジア、そして太平洋の島々へと送り込まれ、苛烈な戦いの最前線に立たされたのです。
愛する人を残し、戦地へと向かった若者たち。その胸の内には、どんな想いが渦巻いていたのでしょうか。
今回は、とある22歳の兵士が遺した日記に綴られた、恋人への熱い想いを紹介します。
節子の肌、恋し

画像 : 市ヶ谷記念館として部分現存している陸軍予科士官学校本部 public domain
日記の著者、千葉三夫さんは、大正9年岩手県生まれ。10歳で父を亡くし、兄夫妻に引き取られました。
23歳年上の兄は中学校の教員で、兄夫妻は自分の子どものように三夫さんを育てたそうです。
昭和12年12月、第54期生として市ヶ谷の陸軍予科士官学校に入学した三夫さんは、翌年、仙台に基盤を置く「第二師団歩兵第四連隊」に所属します。
太平洋戦争開戦の2ヵ月前には陸軍中尉となり、「第二大隊速射砲中隊」の第一小隊長を務めていました。
三夫さんの日記には、昭和17年の元旦から10月31日までの日々が、約300ページにわたって書かれています。
日記の第1日目は、日本軍の快進撃と新年の決意が記され、翌2日の日記には、恋人と過ごした夜のことが綴られています。
赤坊(あかんぼう)を作るため大無理をす。全くグロッキーの気味あり、食欲進まず。(1月2日)
御殿場駐屯地で演習を行っていた三夫さんは、休暇を取って仙台から恋人を呼び寄せ、二人だけの時間を過ごしていたのでした。
恋人の名前は「節子」さん。
二人が初めて結ばれた日は「婚約記念日」として、
昭和16年10月13日、節子ト契ヲ結ブ。初メテ女ヲ知ル。
と日記の余白に書き込まれています。
将来を誓い合った二人でしたが、周囲の反対にあい、結婚はかないませんでした。
出征までわずかとなった1月2日の夜は、最後の逢瀬だったのかもしれません。
戦地に赴く前に、どうしても子どもを遺したいという三夫さんの強い思いが感じられます。
その後、日記には、節子さんへの恋しさや懐妊の期待が記されています。
節子のこと思ひ出したまらなし。今頃何をなしあるや。(中略)節子は余にとりて最大の宝なり。定めしクシャミしありなん。節子の肌、恋し。(1月10日)
節子との思ひ出の場所にて、御殿場にて最后(さいご)の昼飯を食ふ。節子もさびしからん。果して、愛の結晶芽生えしや。節子とのこと、身体を思ふ存分抱きしめたし。(1月12日)
規律の厳しい軍隊にあって、ここまで書いていいものなのかと心配になるほど、赤裸々な感情が記されています。
節子よ、力強く歩め。余は決して死なず。断じて死なず。

画像 : 蘭印作戦でジャワ島メラク海岸に上陸した第2師団将兵(1942年3月1日)public domain
昭和17年1月半ば、三夫さんは、輸送船を軍事用に改造した「喜山丸」に乗り込み、広島の宇品港を出航。
門司、五島列島を経由し、台湾に向かっています。
日記には、軍馬の世話をしていることや映画を観たこと、バナナを食べたことなど台湾での穏やかな日々が綴られるとともに、武勲を立てたいという軍人としての強い思いも書かれていました。
台湾に10日ほど滞在した後、新しい任務地へと出発した部隊は、3月1日、インドネシア・ジャワ島のメラク海岸に上陸します。
蘭印作戦にて警備の任務を遂行する中、三夫さんは節子さんを思い出しては、彼女への想いを日記にしたためました。
節子モンペをはき手拭(てぬぐい)をかぶり、掃除したる所を夢みる。何ヶ月何年、此処に居るやは知れざるも、節子だけは我(わが)宝なり(3月18日)
節子と別れてより、約5ヶ月以上になりぬ。手紙も中々とどかぬといふ。卑怯にはあらざれど、早く帰りたきものなり。(5月10日)
ジャワ島での任務を終えた5月27日、三夫さんは目的地も知らされないまま船に乗り込みました。
船は、北へ北へと進んで行きます。
どこへ行くのかも何が待ち受けているのかも分からないまま、一点の島影さえ見えない漆黒の海を見つめ、三夫さんは「姿なき海魔」におびえていました。
そして自分を奮い立たせるかのように、こう書き綴っています。
節子よ、力強く歩め。凡(あらゆ)る障害を打破して歩まん。(中略)節子の柔き気持、しなやかなる腕、豊満なる肉体、一として余をして嫌はしむるものあらず。節子よ、元気なれ。而(しこう)して、忍んで余の帰りを待て。(5月29日)
余は決して死なず。断じて死なず。(5月30日)
三夫さんが上陸したのは、激戦地ガダルカナル島でした。
最後の言葉と届かなかった想い

画像 : 1942年9月、マタニカウ川を巡回する海兵隊 public domain
日本から7000キロ離れたガダルカナル島では、アメリカ軍に奪われた飛行場を取り戻すため、激しい戦闘が繰り広げられていました。
昭和17年8月下旬から9月にかけて、日本軍は約6000人の兵士を島へ送り込み、三夫さんもその一員でした。
9月15日、三夫さんの所属する歩兵第四連隊は、ガダルカナル島に上陸。
飛行場奪還を目指し、地図も持たぬまま、連日暗いジャングルを進みました。
しかし、日本軍の輸送船は次々と敵の前で沈められ、物資の補給は途絶え、兵士たちは飢えと疲労に蝕まれていきます。
ヤシの実の若芽や葉を口にし、わずかな命の糧を得る日々が続きました。
ガダルカナル島は、「ガ島」ではなく「飢島」とよばれるほど、過酷な戦場だったのです。
戦況は悪化する一方でしたが、三夫さん率いる21名の小隊は、マラリアに倒れる仲間を支え、敵の空爆をかいくぐりながら移動を続け、マタニカウ川に到着しました。
11月3日の総攻撃が迫る中、彼らは川のほとりで息をひそめ、その時を待っていました。
向こう岸にはアメリカ軍の守備隊が態勢を整えています。
もはや、生きて帰ることはないだろう
総攻撃を目前に控えた10月31日、三夫さんの日記には攻撃への不安とともに、最後の言葉が記されています。
コプラ(ヤシの実の殻)にて山口と共に飯、汁をたく。楽しきものなり。汁は辛くて手がつけられず。(10月31日)
11月2日、千葉三夫さんは帰らぬ人となりました。22歳でした。

画像 : アメリカ国立公文書記録管理局(公文書館)public domain
アメリカ軍は、日本軍の戦略分析や兵士のメンタリティの解析のため、戦死した将兵が書き残した文書を収集していました。
三夫さんの日記も、その中の一つです。
日記は、戦後、ワシントンの国立公文書館に保存され、発見されたときは終戦から60年が経っていました。
遺された人たちに知られることもなく、ひっそりと長い眠りについたその日記は、愛する人への届かぬ想いであふれていたのです。
参考文献
重松清、渡辺考『最後の言葉 戦場に遺された二十四万字の届かなかった手紙』講談社
文 / 草の実堂編集部
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