明治天皇陵の規範は「天智天皇陵」だった

画像:天智天皇陵・御廟野古墳 wiki.c
1926(大正15)年10月、皇室の陵墓に関する法令である「皇室陵墓令」が公布された。
陵墓をめぐる制度としては、701年(大宝元年)に制定された大宝律令に喪葬令があるものの、その後何度かの変遷を経て、陵墓の規模や形式などは定まらなかった。
「皇室陵墓令」は、こうした不同を是正し、陵墓を統一するとともに、将来の拠り所となるべき規則を制定しようとするものであった。
陵墓の墳形に関しては、同令の第五条で、「陵形は『上円下方』又は『円丘』トス」と明確に規定された。
このうち「上円下方」とは、明治天皇伏見桃山陵に採用された「上円下方三段型」を基本とする形式である。
一方の「円丘」は、古代に多く見られる単純な円形墳を指すと考えられるが、なぜこの形式が明記されたのかは必ずしも明らかではない。
しかし、ここである疑問が生じる。
なぜ、明治天皇伏見桃山陵に「上円下方」という墳形が採用されたのだろうか。

画像:神武天皇陵(撮影:高野晃彰)
明治新政府は、その政治理念として「神武創業」を掲げ、初代神武天皇に連なる建国の正統性を強調した。
この方針に従えば、明治天皇の陵墓もまた、神武天皇陵と同様に「円丘」で築かれることが自然であったと考えられる。
ところが実際に造営された伏見桃山陵は、「上円下方形」という、古代にごく限られた例しか確認されていない形式であった。
では、「上円下方形」の明治天皇陵は一体、誰のどの古墳を参考に造られたのであろうか。
その答えは、大化の改新を断行した皇室中興の祖・中大兄皇子こと、第38代天智天皇とその御陵・御廟野古墳(ごびょうのこふん)であった。
令和元年の国会においても、明治・大正・昭和の三天皇の陵墓がいずれも「上円下方三段型」で築かれた理由についての質問と答弁がなされている。
衆議院議員津村啓介君提出宮内庁によって陵墓に治定された古墳に関する質問に対する答弁書
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b198277.htm衆議院 答弁本文情報
政府(内閣)は、衆議院議員・津村啓介による「なぜ明治・大正・昭和の天皇陵が上円下方三段型で築かれたのか」という趣旨の質問に対し、「伏見桃山陵(明治天皇陵)の営建にあたり、慎重な研究の末に天智天皇の山科陵(御廟野古墳)を模範とした」と答弁している。
さらに、この墳形が「質実堅牢」であり「森厳嵩高(しんげんこうこう)」であることから、皇室陵墓令においても上円下方三段型を原則としたと説明した。
つまり近代の天皇陵は、明確な制度的・象徴的意図のもと「天智天皇陵を理想形として築かれた」ということになる。
謎多き天智天皇の陵墓・御廟野古墳

画像 : 天智天皇(中大兄皇子) public domain
天智天皇は、672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、近江大津宮で崩御した。
しかしその直後、弟の大海人皇子が挙兵し、いわゆる壬申の乱が勃発する。
戦いの結果、天智天皇の子・大友皇子は敗れ、自害するに至った。
それが影響したのか、天智帝の陵墓が造営されるのは28年後の699年であると、『続日本記』の文武天皇三年の条に記されている。
だが一方で、『万葉集』第二巻には「山科の御陵より退(まかり)散(あら)ける時に、額田王の作れる」歌一首が収録されている。
これは、額田王が山科の御陵、すなわち天智天皇の墓所から離れる際に詠んだ歌であり「亡き帝を偲びつつ、その地をあとにする感慨」を詠んだ内容である。
この歌は壬申の乱直前に作られたとされていることから、『続日本記』の記述とは矛盾が生じてしまう。
そのため、天智天皇陵の基礎は崩御後に造られていたが、何かしらの理由で完成をみずにいたと考えざるを得ない、実に謎多き古墳なのである。
天智天皇陵は実は「上円下方墳」ではなく「上八角下方墳」だった

画像:上空から見た天智天皇陵・御廟野古墳 wiki.c
天智天皇陵の御廟野古墳は、長らく「上円下方墳」であると考えられてきた。
下方部が葺石を持つ二段築盛の上円下方墳で、基底部(一段目)は一辺約70m、上辺(二段目)の一辺は約46m、この上に直径約40m、高さ約8mの上円部が載る構造とされていた。
ところが1988(昭和63)年になって、同陵は「上円下方墳」ではなく「八角形墳(上八角下方墳)」であるという驚くべき事実が発覚したのだ。
それは、宮内庁書陵部が年に一度刊行する『諸陵部紀要』第39部に、何の前触れもなく記載されていた。
そこには「(天智天皇陵の)墳頂外周に花崗岩の切石からなる石列が八角形に繞り、この形にならった北東・北・北西・西の各斜面が明瞭である」とあり、
さらに「当陵は、段築の上円下方墳であるが、通有のものとは違う特殊な点もある。その一つは、上円部が八角形を呈することである」と記されていた。
つまり宮内庁は、日本史における大改革を成し遂げた天智天皇の陵墓について、墳形に関して根本的な事実誤認をしていたことになるのである。
昭和天皇陵も「上円下方墳」で構築

画像:明治天皇伏見桃山陵(撮影:高野晃彰)
この「天智天皇陵は八角形墳だった」という発表は、考古学および古代史の分野に大きな波紋を広げた。
しかも、政府が令和元年の国会答弁において、明治天皇陵の造営にあたって天智天皇の陵墓を模範としたと明言している以上、本来であればその墳形も「上八角下方墳」であるべきだったということになる。
「上円下方墳」は、一部例外はあるが、天皇のみに許された「八角形墳」と比べると格式の面で一段低く、主に皇族・上級豪族に採用された墳形だ。
にもかかわらず、明治・大正・昭和の近代天皇陵は、いずれもこの「上円下方墳」で築かれてしまった。
あえて乱暴な言い方をすれば、天皇陵に相応しいとはいえない、格式的にも最適ではない墳形で造られてしまったのである。

画像:明治天皇伏見桃山陵の墳丘(撮影:高野晃彰)
とはいえ、宮内庁を擁護できる事情も存在する。
それは、考古学的知見が今日とは比べものにならないほど乏しかった大正初期においては、たとえ天智陵を調査したとしても、その上部墳形が八角形であるかどうかを実証することは、おそらく不可能であったという点である。
しかしながら、問題は単に当時の考古学的制約にとどまらない。
宮内庁が天智陵の墳形を「上八角下方墳」と発表した1988年末、ちょうどその頃、昭和天皇の御容体が悪化し、翌1989(昭和64)年1月には崩御を迎えている。

画像:昭和天皇武蔵野陵の墳丘(撮影:高野晃彰)
本来であれば、この時点で墳形の見直しや対応が検討される余地があったはずである。
にもかかわらず、昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)は、明治・大正両天皇の陵と同様、「上円下方墳」の形式で築かれることとなった。
おわりに

画像:大正天皇多摩陵(撮影:高野晃彰)
明治・大正・昭和の三代にわたって採用された「上円下方墳」は、当時の制度的制約や技術的判断、さらには先例との連続性を重視した結果であったと考えられる。
特に明治天皇陵墓(伏見桃山陵)においてこの墳形が採用されたことで、その後の天皇陵にも同様の形式を踏襲する流れが自然に生まれたのだろう。
たとえ天智天皇陵が「八角形墳」であると途中で判明したとしても、一度定着した様式を急に変更するのは、政治的・儀礼的にも困難だったと見るべきかもしれない。
とはいえ、天皇陵に八角形という墳形が与えられてきた歴史的背景や、その象徴的な意味が存在することも、また事実である。

画像:八角形の牽牛子塚古墳。斉明天皇の真陵と目される。(撮影:高野晃彰)
これからの時代において、天皇陵がどのようなかたちで築かれていくのか。
その問いに対して、何らかの見直しや議論がなされることがあるとすれば、それは伝統と現代をつなぐ意味でも、意義ある営みになるのではないだろうか。
※参考文献
矢澤高太郎著 『天皇陵の謎』文春新書刊
外池昇著 『天皇陵「聖域」の歴史学』講談社現代新書刊
衆議院『答弁本文情報』
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部
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