1941年12月8日(ハワイ時間12月7日)、日本海軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃を仕掛け、太平洋戦争が勃発した。
この真珠湾攻撃は、日本が国際的な孤立を深め、最終的に破滅へと向かう契機となった重大な出来事である。
なぜ日本は、当時世界最大の工業国であったアメリカとの無謀とも思える戦争に踏み切り、そして真珠湾攻撃という手段を選んだのだろうか。
資源の確保と列強の圧力

画像 : 真珠湾攻撃 1941年12月7日、真珠湾を襲う日本海軍機によって撃沈される戦艦アリゾナ public domain
日本が真珠湾攻撃を決断した背景には、資源の確保という喫緊の課題と、欧米列強、特にアメリカによる経済的・外交的な圧迫があった。
1930年代を通じて、日本は満州事変や日中戦争の拡大により、国際連盟を脱退し、国際的な孤立を深めていた。
戦争の継続と国家の維持には、石油、鉄鉱石、ゴムなどの重要資源が不可欠であったが、これらの多くを海外、特にアメリカからの輸入に頼っていた。
日本がフランス領インドシナ(仏印)北部へ進駐したことを受けて、1941年7月、アメリカは日本の在米資産を凍結し、事実上の対日石油禁輸に踏み切った。
これは、日本の備蓄石油が数年で枯渇することを意味し、日本の国家生存そのものを脅かすものであった。
資源を自給自足できる体制を確立するためには、東南アジアの南方資源地帯の確保が絶対不可欠となり、日本はこれを軍事力によって達成する道を選んだのである。
しかし、この地域を支配下に置くことは、フィリピンなどのアメリカの勢力圏と真っ向から衝突することを意味していた。
外交の限界と指導部の焦燥

画像 : コーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎駐米日本大使と来栖三郎特命大使(1941年12月7日)public domain
アメリカの禁輸措置は、日本の指導層に大きな衝撃と焦りをもたらした。
石油が止まれば軍艦も飛行機も動かず、戦争どころか国の経済そのものが立ち行かなくなる。
国内では「あと一年で備蓄が尽きる」との試算が出され、政府と軍の会議は連日、緊迫した空気に包まれていた。
事態の打開を目指して、日米交渉はワシントンと東京の双方で続けられた。
日本は中国大陸での権益維持を主張し、アメリカはこれを侵略と見なして譲らなかった。
そして1941年11月26日、国務長官コーデル・ハルが提出した文書、いわゆる「ハル・ノート」が、事実上の最後通告となる。
そこには、日本軍のすべての中国・仏印からの撤退、三国同盟の実質的な破棄、さらには満州国の否定が求められていた。
日本側はこれを「実質的な最後通牒」と受け取り、外務省や軍令部の間に絶望的な空気が広がった。
「このままでは国力が尽き、いずれ屈服するしかない」そうした思いが政府中枢を支配していく。
彼らにとって、戦争に訴えることは、国力があるうちに一気に攻勢をかけ、有利な条件で講和に持ち込むための最後の機会と映ったのである。
こうして日本は、開戦か、国力枯渇による和平かの二者択一に追い込まれ、短期決戦による南方資源地帯の確保が唯一の活路と見なされた。
奇襲の戦略的必要性と連合艦隊の決断

画像 : 連合艦隊司令長官時代の山本五十六 public domain
南方作戦を成功させるためには、日本の後方を脅かすアメリカ太平洋艦隊の存在が、最大の障害であった。
フィリピンや東南アジアへの侵攻中に、ハワイの艦隊が出撃して補給線を絶たれれば、作戦そのものが瓦解しかねない。
この危険を取り除くためには、緒戦でアメリカ艦隊を叩き、行動不能にしておくしかなかった。
このとき、日本海軍連合艦隊を率いていたのが山本五十六である。
彼はもともと開戦に慎重であり、アメリカとの長期戦がいかに無謀であるかを最も理解していた人物でもあった。
それでも、もし戦うなら「最初に一撃を加えて主導権を握るしかない」と考えた。

画像 : 大日本帝国海軍艦隊の航跡図 public domain
その結果として立案されたのが、ハワイ・真珠湾への奇襲作戦である。
作戦の目的は、アメリカの主力艦隊を一時的に無力化し、日本が南方資源地帯を確保し、防備を整えるまでの時間を稼ぐことだった。
つまり、真珠湾攻撃は「勝つための戦い」ではなく、「延命のための戦い」であった。
それほどまでに日本の状況は切迫していたのである。
この作戦は、短期決戦でアメリカの戦意を挫き、早期講和へと持ち込むという、極めて賭けの要素が強い戦略だった。
政府と軍の指導部は、アメリカの工業力と国民の結束を過小評価し、「半年から一年は優勢に立てる」という楽観的な見通しにすがって開戦へ踏み切った。
山本五十六はその代償を誰よりも恐れていたが、もはや歯止めは利かなかった。
真珠湾攻撃は、確かに日本を一時的な優位に立たせた。
しかしそれは同時に、アメリカの世論を一気に開戦へと向かわせる決定的な要因にもなった。
この一撃が、やがて日本を敗北と壊滅へと導く引き金となったのである。
参考 : Foreign Relations of the United States: The Far East, Vol. IV(米国務省公式、日米交渉記録)他
文 / エックスレバン 校正 / 草の実堂編集部
























いわゆる“太平洋戦争”へと突き進んだ理由については、中国大陸への侵攻の行き詰まり、ヨーロッパにおけるドイツの一時的な覇権、体外戦争を肯定する国内世論など複合的な理由が重なっていた。
南方資源の確保という目的はあったが、開戦後どのように終わらせるかという手段は確立されておらず、「イギリスはドイツが降伏させて、残ったアメリカの反撃を退ければいい」という安易な戦略があったぐらい。
その戦略も半ば忘れて西はインド洋から東はニューギニアまで進撃したが、この動きはイチ海軍元帥がコントロールできるようなものではなかった。