大正&昭和

【芸妓からアメリカの大富豪の妻へ】モルガンお雪 ~明治のシンデレラの生涯

モルガンお雪

画像 : モルガンお雪 public domain

明治時代、アメリカの大富豪モルガン財閥創始者の甥と結婚し、海を渡り、波瀾万丈な生涯を送った祇園の芸妓がいた。

その名はモルガンお雪、本名を加藤ユキと言う。

彼女は異国の玉の輿に乗り、夢のような生活を送るかに見えたが、実際には数々の困難や偏見に立ち向かわなければならなかった。
母国である日本では『金に目がくらんだ売女』などと罵られ、アメリカでは『有色人種の異教徒』などと差別された。

そんな明治のシンデレラ、モルガンお雪の生涯とはどのようなものだったのだろうか。

幼い頃に父を亡くし、14歳で姉の芸者置屋のお抱え芸妓になる

モルガンお雪は、明治14年(1881)京都に生まれた。

お雪の父親は京都で刀剣商を営んでいたが、お雪が幼い頃に亡くなったため、お雪は床屋を営む兄に育てられた。

また、お雪のいちばん上の姉は祇園新地の芸妓になり、一家を支えた。

モルガンお雪

画像 : 胡弓を弾くお雪 public domain

そしてお雪が14歳の頃、その姉が独立してお茶屋兼芸者置屋をはじめたことから、お雪はお抱えの芸妓になり『雪香』という芸妓名で座敷に出るようになった。お雪は清楚な感じの女性で、座敷ではよく胡弓(擦弦楽器)を弾き、人気を集めたという。

そんなお雪は後に、『尾野亭』という外国人専用の店で、客として来たアメリカのモルガン財閥創始者の甥であるジョージ・デニソン・モルガンに見初められることになるのである。

傷心の大富豪に見初められるも、求婚を断る

画像 : ジョージ・デニソン・モルガン public domain

明治33年(1900)頃、ジョージ・デニソン・モルガンは、ある令嬢との恋に破れ、傷心旅行として日本を訪れた。

モルガンは日本についてそれほど詳しいわけではなかったが、横浜に住んでいたことがある友人から日本の風土や伝統美術の素晴らしさなどを聞いていた。モルガンは各地を見てまわった後、翌明治34年(1901)に、京都の祇園で当時20歳であったお雪と出会った。

座敷で胡弓を弾き、やさしい気配りを見せるお雪の姿に、モルガンは一目惚れしてしまう。

モルガンはその後も度々祇園を訪れ、お雪を座敷に呼んでは自分の想いを伝え続けた。そしてついにはお雪に求婚した。

しかし当時、お雪には京都帝国大学の学生、川上俊介という恋人がいたため、モルガンからの求婚を断った。

画像 : 恋人だった川上俊介。鹿児島出身、京大法学部卒。浪速銀行を経て企業の重役を歴任し50歳で没。 public domain

また、お雪はモルガンのことをある一人の客に相談していた。その客とは、映画監督であり「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三であった。

牧野とお雪は懇意の仲であった。お雪が「モルガンという外国人客から身請けの話がある」と相談すると、牧野は「それは面白い。それなら4、5万円くらいふっかけてやれ」と冗談めかして言ったという。

この当時の4万円は、現在の約8億円に相当する巨額であった。

しかし、この話がマスコミに知られると、『4万円の貞操』というセンセーショナルな大見出しで、お雪の身請けの記事が新聞に派手に書き立てられてしまった。

そのため、牧野はお雪と距離を置かざるを得なくなったが、この切ない恋物語を台本に書き上げ、『モルガンお雪』という題名で舞台で上演したところ、大ヒットとなった。

恋人にふられた後、モルガンの求婚を受け入れて渡米する

お雪はモルガンからの求婚を断るために、牧野のアドバイス通り「芸妓をやめるには4万円の身請け金が必要です」と話していた。

そうすれば、さすがのモルガンも諦めてくれるだろうと思っていたのだが、モルガンは決してお雪を諦めることはなかった。

一方、お雪の恋人であった川上俊介は、大学を卒業し一流銀行に就職すると、次第にお雪を顧みなくなった。さらに、川上は親が決めた良家の女性と結婚することになり、お雪は大きなショックを受けた。

失意の中で、お雪は真面目で誠実なモルガンの4年越しの求婚を、ついに受け入れる決意を固めた。

こうしてお雪はモルガンに落籍され、明治37年(1904年)1月に横浜で結婚式を挙げた後、モルガンとともに渡米したのである。

モルガンお雪

画像 : モルガンと日本人妻・雪の米国到着を伝える新聞記事。1904年 public domain

当時の日本社会は非常に閉鎖的であり、結婚相手は親が決めるものとされていた。日本の女性が国際結婚をして海外で生活するなど考えられないことであった。しかもモルガンは大富豪であり、お雪は「金に目がくらんだ売女」と非難された。

それでも二人はアメリカに渡ったが、当時のアメリカでは差別がひどく、お雪は「有色人種の異教徒」と揶揄され、社交界への出入りを禁止されたのである。

パリに移り社交界の花形になるも、夫が急死する

明治38年(1905年)、お雪は夫のモルガンとともに日本に里帰りした。しかし、日本の新聞はこの訪問をひやかし気味に報じた。

二人は京都の南禅寺近くにあるモルガンの別荘にしばらく滞在したが、お雪にとって母国はもはや安住の地ではなかった。日本もアメリカも居心地が悪くなった二人は、ヨーロッパに渡ることを決意した。

そして二人はフランスのパリで結婚生活を送るようになり、やがてお雪はその美貌と教養が認められ、パリ社交界の花形になった。

異国での生活には困難も伴ったが、お雪は幸せな日々を過ごしていた。

モルガンお雪

画像 : 洋装のお雪 public domain

しかし、大正4年(1915年)、お雪が34歳の時に悲劇が訪れる。

所用でアメリカに出かけていたモルガンが、フランスに戻る途中で心臓発作を起こし、44歳で急死してしまったのである。

モルガンの死後、お雪は彼の遺言に従ってアメリカに帰化しようと試みたが、当時の排日運動の影響で実現には至らなかった。

その後、お雪は遺産相続をめぐるモルガンの一族との裁判に勝ち、約60万ドルものモルガンの遺産を受け取り、フランスで生活を送った。

恋人の死、日本に帰国、その後

モルガンお雪

画像 : 洋装のお雪 public domain

翌大正5年(1916年)、お雪は友人であったフランス陸軍士官のタンダール男爵がいるマルセイユに移り住み、タンダールと同棲生活を始めた。

しかし、昭和6年(1931年)、お雪は恋人のタンダールにも先立たれてしまった。お雪はその後もフランスでの生活を続けたが、第二次世界大戦を前にヨーロッパは不安定な状況に陥った。

さらに、お雪と親しかった2番目の姉が病気になり、姉が会いたがっていることを知ったお雪は、フランスを離れて日本に帰国する決意を固めた。そして昭和13年(1938年)、お雪は33年ぶりに日本の土を踏んだのだ。

お雪が長崎港に到着した際には記者会見が行われ、その時のお雪は流暢なフランス語を話していたが、日本語はほとんど話せなくなっていたという。さらに、お雪は国籍を持たないままであったことから、特高警察にスパイの嫌疑をかけられるなど、様々な苦労を強いられた。

戦後、お雪は京都の衣笠にあるカトリック教会の信者となり、モルガンの遺産のほとんどを教会に寄付した。その後、お雪は大徳寺の近くで養女とともに静かな生活を送り、昭和38年(1963年)に81歳でこの世を去った。

お雪の生涯はまさに波瀾万丈であった。

彼女は最後まで日本国籍を回復しようとはせず、無国籍のユキ・モルガンとして生涯を終えたのである。

参考文献
中江克己「明治・大正を生きた女性」 第三文明社
マキノ雅弘「映画渡世・天の巻」 平凡社
三好徹「妖婦の伝説」実業之日本社

 

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