奈良時代

奈良の東大寺近くにある謎のピラミッド「頭塔」に行ってみた

奇妙な名前の史跡「頭塔」

奈良の東大寺南大門から、南に1km程度の高畑の西エリアに「頭塔(ずとう)」という名の奇妙な史跡があります。

奈良を何度も訪れている方でも、この史跡をご存知の方は少ないと思います。

今回は、この奇妙な名前の史跡「頭塔」に足を運んでみました。

「頭塔」の伝承と史実

頭塔

画像 : 頭塔 ※筆者撮影

この「頭塔」は『東大寺要録』の記録では、767年に僧侶の実忠により「土塔」が造営されたとあり、当初は「土塔」と呼ばれていました。

実忠は東大寺の僧であり、二月堂で営まれる修二会行法(お水取り)を創始した人物としても知られています。

その後、藤原氏の氏寺である興福寺の寺域が拡張される際に、この「土塔」が境内に取り込まれました。そして、興福寺内にあった僧侶の玄昉(げんぼう)の菩提を弔う興福寺菩提院との関係から、「玄昉の首塚」という伝承が生まれました。

平安時代になると、大江親通の『七大寺巡礼私記』にこの伝承が記されたことで、広く知られるようになりました。

このようにして玄昉の首塚伝承が広まるにつれて、「土塔」という呼び名は次第に忘れ去られ、「頭塔」と書かれるようになり、さらに「どとう」が訛って「ずとう」と呼ばれるようになったのです。

玄昉とはどんな人物で、なぜ首塚の主が玄昉とされたのか

頭塔

画像 : 玄昉 興福寺南円堂座像 public domain

先に「頭塔」という奇妙な名前には、玄昉にまつわる伝承が深く関わっていると述べました。
次に、玄昉とはどのような人物で、なぜ首塚の主が玄昉とされたのかについて説明します。

玄昉の生誕日は不詳ですが、史実では以下の様な人物だとされています。

僧侶であった玄昉は、717年の遣唐使に学問僧として唐に渡り、唐の高僧智周に師事して法相を学びました。その期間は18年にも及び、735年に次の遣唐使が帰国する際、経論5000巻の一切経と数々の仏像を携えて帰国しました。

唐では、当時の皇帝玄宗にその才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜されたと伝えられています。

帰国後、玄昉は聖武天皇の信頼を得て、吉備真備とともに橘諸兄政権を支える重要な人材として出世しました。

しかし、こうした政治体制の影響で九州(大宰府)に左遷された藤原広嗣が「吉備真備と玄昉を政権から外してほしい」と上訴し、740年、広嗣は九州で兵を起こし内乱が起こったのです。(※藤原広嗣の乱)

その結果、藤原広嗣は敗北し、九州の地で処刑されました。

藤原広嗣の乱 「なぜ藤原不比等の孫は内乱を起こしたのか? 」
https://kusanomido.com/study/history/japan/nara/80392/

藤原広嗣が処刑された3年後、朝廷では藤原仲麻呂が勢力を伸ばし、ライバルである左大臣・橘諸兄の権力を削ぎ落としました。この影響を受けて橘諸兄の側近だった玄昉も朝廷から九州に左遷され、翌746年に失意の中、任地で亡くなりました。

この当時、都では「藤原広嗣の怨霊が都に禍をもたらす」という噂話が広がっていました。

そして玄昉が広嗣と同じ九州に左遷され、わずかな期間で没したことで、都では「広嗣の怨霊が玄昉を祟り殺した、広嗣の怒りは鎮まっていない」と、さらに噂されるようになったのです。

玄昉に関する伝承の一つに、広嗣に祟り殺された玄昉の体が飛来し、5カ所に落ちたというものがあります。

画像 : 玄昉を祟る藤原広嗣『和漢 絵本魁 初編』 国文学研究資料館所蔵 CC BY-SA

玄昉は、広嗣の悪霊に空中に連れ去られて、平城京に向かって投げ捨てられた。
興福寺近くに落とされた玄昉の体はバラバラになり、頭部は現在の高畑町近くに吹き飛ばされた。

この時、その頭部を埋葬したと伝わるのが、高畑町に今も残る頭塔(ずとう)とされ、「玄昉の首塚である」という伝承が生まれたのです。

「頭塔」の発掘調査と復元

この史跡(頭塔)は、長い間、こんもりとした木々が茂る丘として子供たちの遊び場となり、その重要性が忘れ去られていました。

しかし、昭和61年に発掘調査が始まり、丘の下から28基の石仏が発見されました。これらの石仏はすべて重要文化財に指定されています。

その後、平成3年に丘の南側半分は発掘前の状態を残し、北側半分は調査結果や文献に基づいて当時の様子が復元され、現在の姿となっています。

頭塔

筆者撮影

頭塔

筆者撮影

頭塔は仏塔であり、1辺32メートルの正方形の石積み基壇上に7段の階段状の石積みが施され、高さは10メートルに達します。
全体は四角錐のピラミッド状の構造になっており、奇数段には小屋根が設けられ、その下には大きな石に刻まれた石仏が配置されています。

各面には11基ずつ、合計44基の石仏が祀られていたと考えられ、非常に立派な土塔であったことがわかります。

この「頭塔」に類する土塔は非常に珍しく、他には僧の行基が関与したとされる大阪府堺市の土塔があり、こちらも復元されています。

最後に

奈良の高畑にある奇妙な名前の史跡「頭塔」は、土と石積みで造営された仏塔の「土塔」でした。

この「土塔」が玄昉の首塚伝承により、いつしか「どとう」が「ずとう」と訛って呼ばれ、表記も「頭塔」が当てられたものであることが分かりました。

この「頭塔」は普段は内部に入れませんが、毎年秋に行われる「正倉院展」の時期に、一般公開されています。

歴史好きなら、一度は足を運んでみても良いかもしれません。

参考 :
「頭塔」一般公開時パンフレット
頭塔 | 奈良市観光協会サイト
大宰府市文化ふれあい館

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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