奈良時代

藤原広嗣の乱 「なぜ藤原不比等の孫は内乱を起こしたのか? 」

藤原広嗣の乱

画像 : 藤原広嗣『前賢故実』より public domain

奈良時代の中期、藤原不比等(ふじわらふひと)の孫である藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)が、内乱を起こす事件が発生する。

藤原広嗣の乱である。

藤原広嗣の乱は、広嗣の父や叔父である藤原不比等の4人の子たち(武智麻呂・房前・宇合・麻呂:藤原四兄弟と呼ぶ)が政権を運営していた時代から、橘諸兄(たちばなもろえ)に政権主導者が変わった際に発生した事件であった。

藤原不比等の孫・広嗣は、なぜ内乱を起こしたのだろうか?

藤原四兄弟から橘諸兄に政権主導者が変わった事件

藤原広嗣の乱

画像 : 橘諸兄(たちばなのもろえ)『前賢故実』より public domain

聖武天皇(しょうむてんのう)が国を治めていた時代、天然痘が大陸から日本に入り込み、広く蔓延した。

天然痘により多くの人が命を落とした。
現在の内閣にあたる太政官(だじょうかん)達も天然痘にかかってしまい、政治判断を行っていたほとんどの公卿が亡くなってしまったのだ。

大臣をはじめ、大納言、中納言といった上級の公卿が病没し、残ったのは2人の参議のみであった。
聖武天皇は生き残った参議の橘諸兄を大納言に昇進させ、政治の立て直しを図る。

藤原氏としては、太政官で権力を振るっていた藤原四兄弟全員が病没してしまったことで、勢力は大きく後退することになる。

皇族の長屋王(ながやおう)から政権を奪取していた藤原氏だったが、元皇族の橘諸兄が政治主導者の立場についたことで、再び主導者の立場から去る形になってしまったのだ。

藤原四兄弟の子どもたちは、藤原氏以外の者が政治を行う体制に急変したことで、焦りや不安、不満もあった。
主導者が変われば方針も変わってしまう。

藤原広嗣はそのような中で、内乱を起こしたのである。

藤原広嗣は、どのような人物だったのか?

画像:藤原不比等 public domain

藤原広嗣は、藤原不比等の三男・宇合の長男として715年に生まれた。

藤原四兄弟の生前時には、朝廷の一般役人として従六位上の位階についており、貴族待遇となる従五位下まであと少しのところまで出世していた。

天然痘で多くの貴族や役人が亡くなったことで人事刷新が行われると、737年9月に三階昇進し、従五位下の位階を授けられる。
これにより貴族階級となり、式部省という役所の三番手である式部少輔(しきぶのしょう)に任された。

翌738年には、現在の奈良県辺りの大和国の国守である大養徳守(やまとのかみ)も兼任することとなる。

しかし同年12月、突如として式部少輔と大養徳守の役務を解任され、九州の大宰府という地方役所に配置転換されてしまう。
大宰府とは、大陸や朝鮮半島との窓口となる場所であり、使節団を受け入れる役所であった。

大養徳守は従五位上に相当する役職であったが、大宰府には、従五位下相当の太宰少弐(だざいのしょうに)という役職での異動であった。

広嗣にとっては、左遷人事と捉えられる内容での人事異動であった。

なぜ朝廷は、広嗣を左遷したのか?

画像:正殿跡(都府楼跡石碑) wiki c vigorous action

橘諸兄は、遣唐使として唐に渡って帰国した僧の玄昉(げんぼう)、中宮の役人で従五位上の吉備真備(きびのまきび)をブレインとして政治に参与させていた。
今でいうアドバイザーや総理秘書官といったイメージの立場である。

こうした政治体制の中で藤原広嗣は大宰府異動となったが、この理由としては諸説考えられている。

適材適所説

一つは、藤原広嗣の能力を評価し、適所に配置したという適材適所の人事異動である。

藤原四兄弟の政権時、外交政策として、渤海(ぼっかい)という新羅の北にあった国との同盟を結ぶことで、唐と関係を改善し強気に出ていた新羅(しらぎ)に対しては強硬姿勢を取っていた。

しかし、橘諸兄政権では国力回復に重点を置き、武力を外交に割かない動きを取った。
そのような微妙な状況下での新羅の使節団との対応を任せるため、広嗣は異動させられたと云われている。

広嗣の父である藤原宇合(ふじわらのうまかい)が、大宰府の最高責任者・大宰帥(だざいのそち)であったことも背景にあったとみられている。

不貞関係を報告し、遠ざけられた説

二つ目は、広嗣が玄昉と皇后の不貞関係を報告したことで、朝廷から遠ざけられたという説である。

画像:玄昉 public domain

内道場に出入りしていた玄昉と、聖武天皇の皇后である光明皇后(こうみょうこうごう)との不貞関係を目撃した広嗣は、聖武天皇にその事実を報告する。

しかし、おもしろくない報告を受けた聖武天皇は、広嗣を朝廷から遠ざけてしまったというものである。

身内に対する誹謗で左遷された説

また、身内に対する誹謗により左遷されたという説もある。

こちらは聖武天皇の母である藤原宮子(ふじわらのみやこ)と、宮子の病気を治療した玄昉との間に不貞関係があったのではないかと、広嗣が周囲に話していたことを咎められたという説である。

藤原宮子は叔母に当たることから、自身の叔母であり、また天皇の母に対しての誹謗に当たるということで、処分されたというものだ。

いずれにせよ、広嗣にとっては不本意な人事異動であった。

藤原広嗣の乱

大宰府に移った広嗣は、聖武天皇に対し「玄昉と吉備真備を政治から外すように」と進言する書簡を送る。

現状の体制を批判する内容であったことから、広嗣の上訴は「謀反である」と判断され、聖武天皇は藤原広嗣の討伐を指示した。

これを受け、藤原広嗣は大宰府で挙兵したのである。

挙兵した背景には、朝廷内で橘諸兄の政治体制に対して不満を持つ者のクーデターを期待する部分もあったとみられている。
しかし、その思惑は外れ、朝廷内での動きはみられることなく、広嗣征伐軍が九州に向かって進軍してきたのである。

朝廷軍は参議の大野東人(おおののあずまひと)を将軍とし、諸国から招集した1万7千の兵で構成されていた。

画像:大野東人 public domain

一方、広嗣の軍は、九州最初の砦となる豊前国の板櫃鎮(いたびつのちん)で迎え撃つため、西、南西、南南東の3方向から包囲する目的で軍を3つに分け、各5千の兵力で進軍を行った。

画像 : 藤原広嗣の乱関係図 wiki c

しかし朝廷軍は、広嗣の想定よりも早く九州に上陸し、板櫃鎮を制圧してしまったのである。

そして広嗣の部隊は板櫃鎮西側の板櫃川に差し迫り、川を挟んで朝廷軍と対峙した。

勅使の佐伯常人は、対岸の広嗣に向かい呼びかけを行い、広嗣は何回かの呼びかけ後に姿を現した。

広嗣は「政治を見出している吉備真備と玄昉を罰することの許しを得ようとしているだけで、朝命に反抗はしていない」と返答した。

これに対して、常人は「なぜ天皇から出された朝廷への召喚を無視し、兵を率いてきているのか?」と問い返す。

この問いに広嗣は答えられず、無言で軍の奥に引き返してしまった。

このやりとりを聞いた広嗣軍の兵の一部は、自分たちが国の兵である「朝軍」ではなく「朝敵」となっていると認識し、朝廷軍に投稿しはじめた。

朝廷軍は、投降した兵から広嗣軍の別の2部隊がまだ到着していないことを聞くと、広嗣軍と交戦を開始。

この戦いに敗れた広嗣は、弟の藤原綱手(ふじわらのつなで)と共に逃亡する。

備前国松浦郡値嘉島(現在の五島列島)から新羅に向かって逃げようとするも、途中で西風に押し戻され、新羅に渡ることができなかった。

その後、値嘉島で潜伏するも、交戦から1ヶ月後の10月23日、安倍黒麻呂(あべのくろまろ)に捕らえられ、11月1日に処刑されたのである。

翌年1月には、広嗣・綱手以外の宇合の子どもたちや、関係者含む約280人が連帯責任を取らされ、死罪や流刑などの処分を受けることとなった。

こうして、藤原広嗣の乱は幕を閉じたのである。

藤原広嗣は嵌められたのか? 怨霊となった広嗣

藤原広嗣の乱は、謀反人とされた広嗣が討たれて幕を閉じた。

左遷からの一連の流れは、橘諸兄により謀反人に仕立て上げられたという見方もある。
根拠となる記録はないが、もし広嗣が嵌められたのであれば、広嗣は聖武天皇や橘諸兄、その側近達を恨んだことであろう。

その後、広嗣は怨霊となり、玄昉を呪い殺したという伝説もある。
それについては、またの機会に紹介したい。

参考 :
太宰府市 大宰府人物志 資料室だより64
いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社

 

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