中国史

【日中戦争の敗因?】アヘン戦争の報告書が告げていた真実〜なぜイギリスは撤退し日本は突撃したのか

20世紀前半、日本は世界有数の軍事大国でした。

第一次世界大戦の勝利国として国際的地位を高め、資本と生産力を拡大し、列強の仲間入りを果たしていました。

その自信の延長線上にあったのが、中国大陸への進出です。

当時、もし日本軍指導部が、イギリス議会に残された「ある報告書」を読んでいたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

日本が日中戦争で泥沼にはまり込んだ背景には、現場の作戦上の失敗だけでは説明できない構造的な要因がありました。

約100年前にイギリスがアヘン戦争を通じて得ていた、「中国全土の支配は不可能である」という教訓を無視したことが、大きな分岐点となったのです。

同じ大陸と対峙しながら、なぜイギリスは「撤退」を選び、日本は「突撃」を選んでしまったのか。

資料に描かれたイギリスの冷徹な計算と、日本の誤算を対比させながら、日本が陥った構造的な敗北のメカニズムを見ていきたいと思います。

イギリスの冷徹な計算〜「半植民地化」という戦略的撤退

画像:南京条約の調印式 public domain

1840年のアヘン戦争で清に勝利したイギリスですが、彼らは中国全土を植民地化しようとはしませんでした。

当時のイギリス議会に提出されたレポートには、中国の広大な農村地帯を支配することの困難さが、冷静に分析されていたからです。

アヘン戦争の結果、イギリスは「南京条約」によって香港の割譲と五港の開港を獲得しました。

続くアロー戦争や不平等条約の改定交渉を通じて、租界の設置や治外法権、関税自主権の制限など、軍事力で中国を「完全支配」するのではなく、条約と通商で縛る体制を整えていきます。

海沿いの港湾都市は、実質的にイギリスを中心とする列強の経済圏に組み込まれましたが、内陸の広大な農村社会は依然として清朝の手にありました。

画像 : アヘン戦争 イギリス海軍の進撃ルート 竹围墙 CC BY-SA 3.0

当時の議会へ向けた報告では、現地住民の激しい抵抗を抑え込み、広大な国土を支配するには「百万人規模の軍隊が必要になる」といった試算が示され、当時のイギリス軍兵力では現実的ではないと判断されていました。

感情論ではなく、コストとリスクを天秤にかけた合理的な判断でした。

そのためイギリスは「完全な植民地化」をあきらめ「半植民地化」という道を選びます。

内陸の統治は清朝政府に任せ、自国は香港や上海などの主要港(点)と貿易利権だけを確保する、統治のコストを負わずに利益だけを吸い上げる、極めて実利的な戦略だったと言えます。

日本の過信と誤算〜「直接支配」への固執

画像:満洲国の建国という選択は正しかったのか? public domain

その一方、1930年代の日本はどうだったのでしょうか。

第一次世界大戦の好景気で資本を蓄積した日本は、中国への投資と進出を加速させていました。

現地にある自国の資本や権益を守りたいという動機はイギリスと同じでしたが、その手段は対照的でした。

1931年の「満洲事変」において日本は中国東北部を軍事占領し、翌年には「満洲国」を樹立します。
さらに1930年代前半には、華北での権益拡大を狙ったさまざまな工作が進みました。

こうして日本は北からじわじわと大陸に食い込みながら、自国の資本と軍事拠点を広げていきます。
表向きは「現地の自治」や「治安維持」を掲げつつも、実態としては中国側の主権を削り取り、勢力圏を拡大する動きでした。

議会が主導して経済合理性を優先したイギリスに対し、軍部が主導権を握っていた日本は、面子や軍事的制圧を優先する傾向にありました。

「イギリスとは違う」という自負もあったのか、日本はイギリスが回避した「中国大陸全土の直接支配」という茨の道へ足を踏み入れます。

結果として、日本軍はイギリスのレポートが予言した通りの状況に陥りました。
140万以上の兵力を投入しても、広大な大陸を制圧するには全く足りなかったのです。

過去のデータ(歴史)を軽視し、精神論で物理的な限界を超えようとしたことが、国家戦略としての最大の誤りでした。

繰り返された歴史〜「平英団」から「ゲリラ戦」へ

画像:イギリスを苦しめた平英団(イメージ図)

アヘン戦争時、イギリス軍を苦しめたのは正規軍だけでなく、時代遅れの武器を持った民間武装集団「平英団」でした。

民間人の抵抗は、装備の優劣だけでは決まらない「民心の壁」をイギリスに痛感させました。
しかしながら当時の日本は、この歴史的示唆を十分に活かすことができませんでした。

日中戦争において、日本軍は都市や鉄道(点と線)を制圧しましたが、その隙間にある広大な農村(面)には権力の空白が生まれました。

そこに浸透したのが、中国共産党です。

彼らは、かつての平英団のように農民を組織化し、神出鬼没のゲリラ戦を展開したのです。

日本軍は「アヘン戦争時のレポート」が警告していた「現地住民の激しい抵抗」に直面することになります。

近代兵器を持った日本軍に対し、農民主体のゲリラ勢力は数と持久戦術で応戦しました。

目に見えない敵との戦いは消耗戦となり、占領の実効性を根底から揺るがしていったのです。

補給軽視と「三光作戦」による自滅

画像:太平洋戦争中、英領ビルマで日本軍が使用した軍票(※日中戦争で使用された軍票ではない) public domain

長期化する戦線に対し、日本の兵站(補給)能力は限界を迎えていました。

十分な物資が届かない前線の部隊は、現地で食料を調達せざるを得ず、信頼性の低い「軍票」を乱発して経済を混乱させました。

この対応は生きる糧を奪われた農民を、より強固な抗日勢力へと変える結果を招きます。

ゲリラ戦が激化する中で、日本軍は各地で掃討作戦を実施しました。
その過程で、中国側の資料では、これらの苛烈な作戦行動を「三光作戦(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)」と呼び、広く流布するようになります。
一方で、日本側の資料には「三光作戦」という正式な作戦名は確認されておらず、「燼滅作戦」や「無住地区」などとして記録されているケースもあります。

呼称と位置づけについては現在も議論がありますが、いずれにせよ掃討作戦は多くの民間人を巻き込み、結果として民心を大きく離反させる要因となりました。

イギリスは中国全土の直接統治が現実的ではないと判断し、負担を最小化しながら実利を確保しました。一方、日本は軍事力と勢力圏拡大によって情勢を主導できると考え、大陸深部への進出を続けました。

歴史的教訓を分析し、自国のリソース(兵力や補給能力)に見合った戦略を描けなかったことが、日中戦争における日本の敗北の本質と言えるでしょう。

参考文献:波多野 澄雄,戸部 良一,松元 崇,庄司 潤一郎,川島 真(2018)『決定版 日中戦争』新潮社
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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