
画像:1943年10月3日菊花賞。戦時下を駆けた無敗の名牝、クリフジと若き天才。 public domain
16世紀のイングランドで始まったとされる近代競馬は、ヨーロッパ各国を経て日本にも伝わり、幕末には競走が、明治時代には本格的な馬産が始まった。
そうした流れの中で、日本競馬史には時代を象徴する名馬と名騎手が幾人も現れている。
戦時下という特異な時代に、その頂点に立った存在が、無敗で変則クラシック三冠を成し遂げた牝馬クリフジと、彼女の主戦騎手を務めた前田長吉(まえだちょうきち)であった。
1940年3月12日生の牝馬クリフジは、当時まだ騎手見習だった前田とコンビを組み、変則クラシック三冠を含む生涯戦績11戦11勝という、日本競馬史に残る偉業を成し遂げている。
出場したほとんどのレースで圧勝し、デビューから約1年で引退して、その後は故郷の牧場に帰り、繁殖牝馬としての日々を過ごしていたクリフジだったが、穏やかな日々はそう長くは続かなかった。
そしてクリフジの主戦騎手であった前田長吉は出征し、23歳になってすぐ、異国の地でその短い生涯を終えている。
今回は、戦争に未来を奪われた若き天才騎手と、戦時下の日本で伝説的な記録を残した最強牝馬の生涯を紐解いていきたい。
無敗の変則三冠牝馬・クリフジ

画像:2023年優駿牝馬 リバティアイランド wiki c Nadaraikon
クリフジの代名詞ともいえる称号「変則三冠牝馬」。
これは彼女の栄誉を称えるとともに、彼女の強さを端的に表した称号でもある。
2025年時点では、中央競馬(JRA)で行われる牝馬三冠とは「桜花賞」「優駿牝馬(オークス)」「秋華賞」という3つのレースであり、3レースすべてで優勝した馬が三冠牝馬と呼ばれる。
3歳牝馬だけが出走できる牝馬三冠に対して、去勢された馬でなければ牡馬も牝馬も出走できる「皐月賞」「東京優駿(日本ダービー)」「菊花賞」の3レースがクラシック三冠と呼ばれ、この3種すべてのレースで優勝した馬が三冠馬と呼ばれる。
2025年までに誕生したクラシック三冠馬には、ナリタブライアンやディープインパクトなど牡馬8頭、三冠牝馬はジェンティルドンナ、リバティアイランドなど牝馬7頭がいる。
これに対してクリフジは、現行のレースとは条件など異なるものの、1943年に行われた「東京優駿(日本ダービー)」「阪神優駿牝馬(現在のオークス)」「京都農林省賞典四歳呼馬(現在の菊花賞)」に優勝したからこそ、日本競馬史上で唯一「変則三冠牝馬」と呼ばれる馬なのである。

画像:栗林友二『アサヒグラフ』昭和29年6月9日号 public domain
1940年3月12日、千葉県成田市にあった宮内庁下総御料牧場で誕生したクリフジ(幼名は年藤)は、旧3歳の時期にセールに出され、海運会社栗林商船会長であった栗林友二が、4万円で落札したという。
昭和15年当時の公務員の初任給が月額540円、総理大臣の給与が月額3,000円という時代に4万円という高値で購入されたクリフジは、父と母父それぞれが1930年代にリーディングサイアーを獲得した良血馬だった。
クリフジは1943年、日本競馬会において「大尾形」と称された名調教師、尾形藤吉の厩舎に入厩し、脚部不安のため4月に行われた横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)への出走こそ見送ることになったが、翌5月に行われた新呼馬競争で鞍上に尾形厩舎所属の見習騎手・前田長吉を背に初出走、1馬身差で優勝を勝ち取る。
同世代に後れを取りながらも華々しいデビューを飾ったクリフジと前田は、その後も快進撃を繰り広げていった。
3戦目で挑んだ、同年6月6日開催の東京優駿競走(日本ダービー)では、枠入り時のアクシデントでスタートで大きく出遅れたものの、直線で先行していた24頭をごぼう抜きして、2着馬に6馬身差をつけて勝利した。
クリフジの背に乗っていた前田はこの時、後続の馬群の脚音が聞こえなくなり、何か問題が起きたのではないかと気になって、走行中に何度も後方を振り返り確認したという。
その後も連勝を重ね、京都で行われた阪神優駿牝馬(現在のオークス)では10馬身差をつけて勝利。
さらに京都農商省賞典四歳呼馬(現在の菊花賞)でも大差をつけて勝利し、八大競走を含む出走11戦全勝で、無敗の変則三冠牝馬となったのである。
最強牝馬の主戦騎手となった見習騎手・前田長吉

画像:クリフジ(東京優駿を優勝した時のもの)、(1943年6月6日)。日本ダービーに優勝したクリフジと前田長吉。轡は栗林友二。 public domain
1923年に青森県八戸市の農家の四男として生まれた前田長吉は、幼少時から何でも器用にこなす少年で、自らスキー板を手作りしたり、シャモの養育で八戸市養鶏組合から表彰を受けるなど、様々な才能に秀でた真面目で誠実な人物だったという。
競馬の世界に興味を抱き、単身上京したのは17歳になる年だった。
前田は日本調教師騎手会会長をつとめた調教師である競馬界の重鎮・北郷五郎が運営する厩舎に入門した。
しかし入門してから半年後、師匠の北郷が死去してしまう。
行き場を失いかけた前田を弟子として引き取ったのが、後にクリフジを管理することになる尾形藤吉(尾形景造)だった。
1942年5月10日、尾形厩舎で見習騎手となった前田は、クリフジとは異なる馬に騎乗して騎手デビューを果たす。
デビュー戦は余裕の1着で勝利し、残り約半年間に騎乗した12レースでは、1着が5回、2着が2回という優秀な成績であった。
そして翌年の1943年に、前田は尾形厩舎に入厩したクリフジと出会った。

画像:騎手時代の尾形藤吉と、後に金メダリスト西竹一とともにベルリン五輪にも出場した名馬アスコット public domain
当初、クリフジには前田と同じ尾形門下の先輩騎手・八木沢勝美が乗る筈であったが、クリフジが出走予定であった東京優駿では、八木沢は自らのお手馬であるミヨノセンリに騎乗する予定があった。
そのため、急遽前田が八木沢の代理として乗り替わることになったのだ。
そして前述のとおり、前田とクリフジのコンビは、1943年5月のクリフジのデビュー戦から翌年にかけて、圧倒の11連勝を重ねた。
日本ダービーでは、前田は中央競馬における日本ダービー最年少優勝ジョッキーにもなった。(日本中央競馬会発足以前)
しかし1944年5月、クリフジが京都輸送の最中に風邪をひいて熱を出したため、出走を予定していた春の帝室御賞典への出走を回避し、それを機に引退し繁殖牝馬となる。
1944年の競馬は戦争激化の影響を受けて馬券の販売はされず、種牡馬や繁殖牝馬の選定を行うための「能力検定競走」として開催されていた。
先の見えない戦時中であり、正規の競馬が行われない以上、すでに繁殖牝馬としては十分過ぎるほどの優秀な成績を積んでいたクリフジを、競争で走らせ続ける理由はなかった。
クリフジの引退後も、長吉は他の馬に騎乗して現在の桜花賞にあたる中山四歳牝馬特別で1着、東京優駿で2着という好成績を収め、1944年の9月30日には晴れて見習騎手から正規騎手への昇格が決まったという。
長吉に召集令状が届く

画像:舞鶴港に上陸する、抑留からの帰還兵(1946年) public domain
長吉が正規の騎手になってから2週間後、彼のもとに届いたのは騎乗依頼ではなく召集命令だった。
長吉は正規騎手としては1度も騎乗できないまま出征し、物資輸送を担う部隊に入り旧満州に赴くこととなった。
出征直前の長吉は、師匠の尾形の前で「別れがつらい」と泣き、里帰りした実家でも家族の前で「行きたくない」と嘆いたという。
しかし戦況はすでに悪化の一途をたどっており、召集令状を受け取った人間に、出征拒否や泣き言が許される時世ではなかった。
その後、旧満州で終戦を迎えた長吉は、旧ソ連の捕虜となり、シベリア・チタ州のブルトイ収容所に送られた。
シベリア抑留者となり、極寒の地、かつ劣悪な環境、ごく少ない食糧しか支給されない状況で重労働を強いられた長吉は、日本に帰れないまま23歳の若さで病死した。
クリフジは、1944年7月に千葉空襲の影響を受けて下総御料牧場から北海道・日高の牧場に移転した。
それから繁殖牝馬「年藤」として3頭の重賞勝利馬を輩出して、終戦から19年後の1964年に老衰で死去している。
クリフジの生まれ故郷である下総御料牧場は、クリフジの死から5年後に閉場し、御料牧場は栃木県高根沢町へと移転された。
戦中の1943年に鮮烈なデビューを果たし、無双の強さで活躍した長吉とクリフジだったが、1人と1頭が成し遂げた華々しい戦績は、戦後の混乱の中で次第に世間から忘れられていったのである。
歴史に埋もれた名牝クリフジが顕彰馬に

画像:JRA競馬博物館 wiki c くろふね
クリフジの名が再び世間一般に認知されたきっかけの1つは、1984年に日本中央競馬会(JRA)が制定したJRA顕彰馬の6頭中1頭に選ばれたことである。
クリフジと同年に顕彰馬に選ばれた馬には、日本初のクラシック三冠馬セントライトや、クリフジと同じくトウルヌソル産駒である名種牡馬クモハタ、無敗でレコード勝利7回を記録した“幻の馬”トキノミノルなどがいる。
GⅠ競走7勝を挙げたクラシック三冠馬シンボリルドルフの管理者であり、前田と同じく尾形厩舎の門下生であった野平調教師が、「日本競馬史上最強馬は?」という質問に対して迷わずクリフジを挙げたこともあり、変則三冠牝馬クリフジの名が再び日の目を浴びた。
一方、クリフジの主戦騎手だった前田の遺体は、最期の地となったシベリアで埋葬され、2000年になるまで遺骨がどこにあるのかすら分かっていなかった。
2000年8月、シベリアに派遣された日本政府の遺骨収集団が、かつて前田が過ごした収容所跡で何名かの遺骨を収集し、日本に連れ帰ってきた。
その後、2005年に遺骨収集団の団員が情報提供を呼びかけ、前田の遺族が旧ソ連から提供された抑留中死亡者名簿の中に「前田長吉」の名前を見つける。
DNA鑑定の結果、収拾された遺骨の一部が前田のものであることが判明し、2006年7月、死後60年も経ってようやく、前田は生まれ故郷の青森の家に帰ることができたのだ。
2014年に前田の生家で発見された、前田本人が出征前に預けたと考えられる「尾形厩舎」と書かれた桐箱には、前田が見習騎手時代に使用していた馬具などが、きちんと収納された状態で保管されていたという。
戦争に奪われた未来

画像:1930年当時の宮内省下総御料牧場 public domain
前田長吉が捕虜となり遠い異国の地で病死したのも、デビュー時から連勝を重ねたクリフジがわずか1年で競走生活を終えざるを得なかったのも、すべては戦争が原因だった。
師匠である尾形は前田について、騎乗技術、センス、人柄すべてに優れており、もしも戦争がなければ、自らの弟子である有名騎手らと肩を並べるような騎手になったかもしれないと、その才能を惜しんだ。
無敗の変則三冠牝馬と天才見習騎手の青年が、もしも1945年以降も競馬を続けることができていたなら、どんな活躍をして、どれだけの栄光を手にしていただろうか。
戦時下のわずかな時間に示された2つの才能の光は、今もなお日本競馬史の中で静かに輝き続けている。
参考 :
島田 明宏 (著)『ジョッキーズ 歴史をつくった名騎手たち』
江面 弘也 (監修), マイストリート (編集)『血統と戦績で読む伝説の牝馬図鑑』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
























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