軍艦や戦艦が活躍した経歴を指して「艦歴」と呼ぶ。
もちろん船も構造物であることから、「艦歴」にはある程度の制限がある。そんな中日本の艦船の中でも非常に長い艦歴を持つ艦船が「出雲」という船だ。
その艦歴は実に45年にも及んだ。「出雲」はその長い艦歴の中で、どのような活躍を示したのか、この記事でそれを解説してみよう。
目次
装甲巡洋艦「出雲」とはどのような船だったのか?
装甲巡洋艦「出雲」は、日本海軍における「六六艦隊計画」(戦艦6、装甲巡洋艦6)のうちの1つとして建造が開始された。
起工されたのは1898年5月のことで、イギリスのアームストロング社において起工され、日本の横須賀に到着したのは1900年10月のことであった。
なお、この「六六艦隊計画」における「戦艦6、装甲巡洋艦6」という艦船の整備は、当時の日本海軍の規模からすれば恐ろしいほどの大拡張計画となり、結果的には従前の4倍以上の海軍力に達することとなった。
これにより、日本海軍は当時の世界における第4位の海軍力を持つことになる。なお、この艦隊整備計画においては、日清戦争における清からの賠償金が充てられた。
「露探提督」の汚名返上、出雲・上村提督の「蔚山沖海戦」
日清戦争に勝利し、大陸への足がかりを手にしたことで列強国の一員の座を手にしたかに見えた当時の日本であったが、その後の三国干渉や、依然として残る不平等条約の改正問題など、未だ当時の列強国との間には緊張感が漂っていた。
そんな中、日本は未曾有の規模の対外戦争に挑むことになる。それが「日露戦争」である。
日本海軍の戦いは、主に旅順港・ウラジオストクに駐留するロシアの旅順艦隊・ウラジオストク艦隊への対応であったのだが、当初は濃霧やロシア側の戦術によって、日本海軍はなかなかロシア艦隊を捕捉できずにいた。
日本陸軍の輸送船「常陸丸」がロシアのウラジオストク艦隊によって撃沈され、降伏を拒否した陸軍将兵たちが死亡した事件(常陸丸事件)によって、ロシア艦隊を捉えきれない日本海軍への新聞や一般国民からの批判・罵倒は激しくなった。
出雲が旗艦をつとめる第二艦隊に対しては、多くの国民が上村彦之丞提督を「露探提督」(ロシアのスパイ提督)と罵倒し、自宅に投石を受けるなどの行動に走る者もいたという。
しかしそんな中、黄海海戦によってロシア旅順艦隊が損害を受けると、ウラジオストク艦隊は旅順艦隊との合流のため南下を開始。
このウラジオストク艦隊と第二艦隊との間に、「蔚山沖海戦」が勃発することになる。この海戦によってウラジオストク艦隊の装甲巡洋艦「リューリク」を撃沈した。
この「リューリク」こそ輸送船「常陸丸」を撃沈したウラジオストク艦隊を構成する一隻であったことから、上村にとっても当然恨み浅からぬ相手であったわけだが、それでも上村はリューリクの乗員を救助することを決断した。このエピソードは「上村将軍」という歌として残っている。
「出雲」最大の大勝負、「日本海海戦」
日露戦争の陸上での戦いは、「黒溝台会戦」や「203高地の戦い」、そして「奉天会戦」などが有名だ。最終的には日本側が勝利したものの、ここでも多くの犠牲者・損害が発生したことは間違いない。
では海軍はというと、開戦直後となる「旅順口奇襲」や「仁川沖海戦」、「黄海海戦」などが有名である。
大規模な海戦においては日本海軍側は戦果を挙げていたものの、1905年、日本海軍にとっては「正念場」といえる戦いが起こった。それが、「日本海海戦」である。
このとき、ロシア側は「世界最強」とも言われるバルト艦隊(バルチック艦隊)を、喜望峰ルートとスエズ運河ルートとに分け、日本海まで大回航させた。これに対し、日本側の艦隊(連合艦隊)は対馬海峡にてバルチック艦隊と相対することとなり、ここで日露の間に日本海海戦が勃発することとなる。
日本海海戦の勝利については、いわゆる「T字戦法」や日本海の荒波、大回航によるロシア側艦船の弱体化など、日本側の勝因は複数あったろうが、出雲の活躍も見逃すことはできない。
戦闘中、バルチック艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」が北に向かっていると判断した艦隊旗艦・三笠は、出雲に対して同艦を追撃するよう指示したが、上村は即座に同艦が舵の故障によって北に向かっていることを見抜き、三笠からの指示を無視して「クニャージ・スヴォーロフ」を追撃することなく、戦艦がひしめくバルチック艦隊へ猛然と突撃を敢行した。
装甲巡洋艦が戦艦に突撃するのはほとんど自殺行為とも言えたが、結果的にはこれがバルチック艦隊を挟撃する効果を生み、日本海海戦の勝利の一因にもなった。なお、この戦闘で出雲は7-8発の命中弾を出している。
なお、このときバルチック艦隊は「南東(ウラジオストク)への離脱」を企図していたため、上村が三笠の指示どおり北へ向かっていた場合、バルチック艦隊の挟撃など成立するはずもなく、バルチック艦隊の大部分を取り逃していたであろう。
日露戦争後の出雲
日露戦争後においても、出雲は海上で活躍し続けた。
1913年のメキシコ内戦においては邦人保護のために派遣され、1914年から始まった第一次世界大戦においては、アメリカ西海岸を防衛する遣米艦隊となった。
第一次大戦後から太平洋大戦前までにおいては出雲は「練習艦」として運用されていたが、その後「一等海防艦」として、日本の海防の一端を担うことになった。
日中戦争が開始されてからは1943年まで中国・上海に派遣され、出雲は大陸方面ににらみを効かせる役割であったともいえよう。
出雲は中国方面に派遣された艦隊の中でもとりわけ軍規が厳しく、また甲板も真っ白に磨かれていたという。
1943年に内地に帰投してからはふたたび練習艦として運用されたが、1945年の呉軍港空襲の際に、至近弾によって転覆・着底した。
現代に受け継がれた「出雲」の名。護衛艦「いずも」
「出雲」は、実に45年間にわたり現役の艦船であった。
これだけの長い艦歴ももちろんのことながら、すでに旧式化していながら、第二次世界大戦中に「海防艦」籍を与えられたり、その後の定義変更でさらに「一等巡洋艦」籍を与えられたように、決して「お飾り」ではなかったことがわかる。
長きにわたり日本海軍とともにあった「出雲」は、その姿こそ失われたものの、その名は現代の海上自衛隊の護衛艦「いずも」の名に受け継がれている。
なお、「出雲」の船体そのものの姿は現代にはないが、広島県・小用港をのぞむ丘の上に、ともに戦没した「榛名」と合同の戦没者留魂碑が残っている。
おわりに
日本の戦艦や軍艦においては、太平洋戦争でその大半が失われてしまった。また、生き残った艦船も戦後の復興資材として解体されたり、賠償艦として引き渡されたものもある。
日露の時代から海を駆けて戦い続け、その名を轟かせた「出雲」にとって、艦船が次々と沈められていった太平洋戦争、そして自らも沈むこととなった呉軍港空襲はどのように映っただろうか。
しかし最後は沈んだものの、長い期間にわたって日本の船として戦った「出雲」の名は、現代において海上から日本国民を守る護衛艦の名にしっかりと受け継がれているのである。
この記事へのコメントはありません。