太平洋戦争において、特に末期の戦場では、日本軍は連合軍に対し悲惨な戦闘を強いられ、各地で敗退を続けた。
日本軍兵士の勇敢さや粘り強さは、戦後アメリカ軍将兵や、当時の戦闘を知る人によって語られてきたところであるが、それと対比するように、日本の指揮官については、適切な戦闘指導ができなかった例が取り上げられるケースが多い。
今回は、戦後から晩年に至るまで「無能」「愚将」の誹りを受け続けた「冨永恭次」について、その生涯を振り返ってみよう。
冨永恭次とはどのような人物か
冨永恭次は、1892年、長崎県で生まれた。冨永の軍人としてのキャリアは1913年(大正2年)、陸軍士官学校を卒業してから始まる。
陸軍士官学校を卒業後、1923年には陸軍大学校を卒業、1924年に参謀本部付、1925年には関東軍司令部付へ転属している。
冨永という人物の歴史を語る上で、のちに日本の首相となる東條英機との関係は欠かせない。冨永と東條との出会いは1937年のことであった。
東條の政権が後年に批判を受けた理由のひとつに、憲兵を多用して、反対する勢力に対して威圧的・強権的な監視・威迫を行ったことが挙げられるが、この点については、冨永と東條のやり方はよく似ていた。
また、冨永は東條との間の個人的な好悪感情によって重用されたとされ、これも冨永への悪感情が目立つ理由となっている。
「愚将」の誹りを受け続けてきた冨永とその理由
冨永は、太平洋戦争中の記録やそれを描いた作品においては、たびたび「愚将」「無能指揮官」として描かれてきた。
例として、鴻上尚史氏の著書でコミック化もされている「不死身の特攻兵」などではほとんど狂人扱いで、主人公を含めた特攻隊員を見下しつつ、過剰な激励で特攻兵を感動させて死地に送り込む非情な面を持ち、自己の保身のために周囲を最大限利用する悪人という描写である。
冨永が無能であったとする根拠として挙げられる理由には他にもある。
1940年の北部仏印への進駐にて、現地政府との合意を無視して武力進駐を強行したために衝突を引き起こしたことや、1945年に、突如マニラ死守方針を翻してエチアゲに撤退したことなどが挙げられる。
冨永のレイテでの戦い
では、冨永は全く適切な作戦指導を行うことができなかったのか。実のところ冨永は、あくまで作戦の視点で考えれば、成果も残している。
その作戦指導は「レイテ島の戦い」において顕著であった。レイテ島の戦いは1944年10月20日に、アメリカ軍のタクロバン上陸によって始まった。
上陸直後、これまでの戦闘から水際防御という戦術がアメリカ軍に対して無力であることを承知していた第14方面軍指揮下第16師団は、水際を放棄しジャングルへ後退した。しかし、これによってタクロバンなど、海岸地帯の飛行場の多くがアメリカ軍占領下となってしまった。
日本軍にとっては、ある種「奇襲」とも感じられた攻撃であったが、これを見抜いていたのが第14方面軍司令官である冨永だった。
冨永はすでに、大本営の戦果報道は過大であると内心疑っており、レイテ島に連合軍が接近してきたことに対して、「台風が発生したため、進路を変えて避難しているのだろう」との楽観論を退け、アメリカ軍の上陸作戦であると判断していた。
そのため、冨永は全軍に対しレイテ島での迎撃準備を命じていた。
地上軍はジャングルへ撤退したが、冨永の指揮する第4航空軍は、限られた手持ちの戦力でアメリカ艦隊への攻撃を行った。
この戦闘でアメリカ軍軽巡洋艦「ホノルル」を大破させたほか、オーストラリア海軍の重巡洋艦「オーストラリア」に対しては、九九式襲撃機が体当たり攻撃を敢行、艦橋に体当たりを受けたオーストラリアは、艦長・副長以下30名が戦死している。
冨永の「レイテ死守」の覚悟
また、その後の戦いでも冨永はレイテ島死守のための作戦指導を粘り強く続けた。
冨永は、「執拗に」アメリカ軍航空基地を攻撃し、アメリカ軍の戦力を目減りさせようとしていた。
冨永が指揮する第4航空軍は連合艦隊と協同して、アメリカ軍が初めて遭遇する「昼間空襲」と、日本軍が得意とした「夜間空襲」の組み合わせによる猛攻を行い、たった一度の攻撃でP-38戦闘機を27機も地上にて撃破した。
その他、弾薬集積所と燃料タンクが毎晩のように爆砕されたほか、さらなる問題としてアメリカ軍はこの執拗な飛行場攻撃によって、飛行場での航空機整備が行えないことに悩まされていた。
結果的に冨永が指揮した第4航空軍の飛行場攻撃によって、日本軍は11月上旬まではレイテ島上の制空権を確保していたのである。
このことからも、冨永の作戦指導は少なからぬ成果を挙げていたことがわかる。アメリカ陸軍の公刊戦史においても、冨永による第4航空軍の反撃を「こんなに多く、しかも長期間に渡り、夜間攻撃ばかりでなく昼間空襲にアメリカ軍がさらされたのはこの時が初めてであった」と総括している。
しかし、日本内地からの航空機の補充は冨永の想定通りに確保することができず、結局アメリカ軍の足止めの効果を担っていた飛行場攻撃には兵力を回せなくなってしまった。この作戦指導については、昭和天皇も「第4航空軍がよく奮闘している…」とお褒めの言葉が残っている。
他にも、冨永は作戦指導において一貫して地上軍との連携を重視しており、オルモック付近に展開していた地上部隊に対して、作戦機による空輸での補給や、詳細な作戦図を示して適切な投下地点を指示するなどの指導を行っている。
歴史にIFは禁物だが、十分な作戦機の補充が第4航空軍にあり、連合艦隊がレイテ近海のアメリカ軍に反撃するだけの戦力を整えるための時間を冨永が生み出せていれば、後年の評価は真逆だっただろう。
レイテ撤退と「汚名」
冨永や第4航空軍は上記のように激しく抵抗したものの、それでも1944年12月中旬には、レイテ決戦の敗色が濃厚となった。
この頃から冨永は強度の不眠症に加え、デング熱を発症していた。病身ながら、出撃する特攻隊員を抜刀して激励し見送っていた冨永であったものの、1945年1月3日には、冨永は病気により適切な作戦指導を行えないことを理由として、司令官職を更迭するよう自ら申請を発電している。
また、マニラ死守の方針を堅持していた冨永は、病床にありながらマニラの防衛準備を進めさせていたものの、部下参謀からマニラ死守の準備がまったく進んでいないとの報告を受けた。この報告は冨永にとっては、作戦の根幹を揺るがす深刻な報告であった。
この折、第14方面軍司令部参謀より、マニラから北部エチアゲへ撤退するよう説得され、やむなくエチアゲへ撤退した。しかし、拠点として未整備のエチアゲは航空作戦を行うような環境などもちろんなく、残り少ない航空戦力や指揮官を台湾に後退させて温存し、今後の作戦に活用したいとの考えを持った。
第4航空軍参謀長・隈部は、一刻も早く衰弱した冨永を台湾に撤退させようとし、上級司令部の正式な認可を得ることなく、冨永を台北に送り込んだ。これにより冨永は「無断撤退」とされ、予備役に編入されることとなった。
この点について、各創作物などでは、「冨永はレイテ・マニラ死守失敗の責任を逃れるため、病気として台北に独断撤退しようとした」とか、「隈部参謀長が、自分や参謀を死地であるエチアゲから台湾へ撤退させるために、冨永を利用した」と描くものも多い。
とはいえ、独断で司令官が撤退することは敵前逃亡であり、重大な責任問題に発展するであろうことは、東條とともに歩んだ経歴を持つ冨永であれば容易に想像できただろう。
少なくとも冨永は台北撤退について、「上級司令部の正式認可が得られている」と信じて台北に向かったと考えるのが自然である。
終戦後の冨永
冨永は予備役へ投入された後、1945年7月16日、満州敦化の第139師団に補された。対ソ連の最前線であったが、幸運というべきか不幸というべきか、同師団はソ連軍との戦闘を行う前に終戦を迎えた。
冨永はシベリアに連行され、10年間に渡り過酷な抑留生活を送ったのち、1955年4月に引揚船で帰国した。
帰国後の冨永には、先に解説したような批判が激しく寄せられ、「愚将」「無能指揮官」の誹りも多かった。
同様に愚将の誹りを受けた、「インパール作戦」を指導した牟田口廉也は、後年になって自分の作戦指導が適切であった旨を自己弁護する書籍を発行したりしていたが、冨永は周囲からの批判に対しては一切反論を行うことはなかった。
また、シベリア抑留に関する証言を行うために国会に招致された際には、繰り返し「皆私の不徳不敏のいたすところ」、「私の信頼する幕僚にあたかも罪あるがごとくに書いてございましたけれども、これは全くそうではございません。」と述べている。
おわりに
この記事では「愚将」「無能」の誹りを繰り返し受けてきた冨永について、その行動を追いかけて再評価を試みた。
もちろん、それを持って冨永を「名指揮官」「名将」であったとまで弁護するつもりはない。しかしながら、人間はひとつ失敗があれば、他の行動もすべてその無能が引き起こしたものと考えがちである。
冨永は確かに人事権の強硬な行使や、独断撤退を行うなどの問題行動はあった。しかしながらそれをもって、冨永という人物そのものを「無能・非道の狂人指揮官」とまで評価するのは、いささか言い過ぎのようにも感じられる。
少なくともレイテ守備に関して、冨永の作戦指導は当時の環境下で適切と評価できたし、部下将兵への激励も、特攻に赴く将兵を思えばこそと見ることもできる。
この記事を読んだ諸氏は、どのように感じられただろうか。
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