20世紀初頭、激動する東アジアの舞台に現れ、その美貌と謀略で人々を魅了し恐れさせた一人の女性がいました。
彼女の名は川島芳子(かわしま よしこ)。
中国と日本の間で複雑な役割を果たし、最終的にその人生を処刑台の上で終えました。
彼女の生涯は歴史の闇に埋もれながらも、未だに多くの人々の興味を引き続けています。
今回は、「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」「男装の麗人」と呼ばれた謎の女スパイ・川島芳子について解説いたします。
川島芳子の出生
川島芳子の父親は「粛親王(しゅくしんのう)」と呼ばれ、中国が清王朝だった時代の筆頭王族です。
粛親王は正妻のほかに4人の側妃を娶り、21人の王子と17人の王女がいました。
芳子は第四側妃の娘で、本名は愛新覚羅顕玗(あいしんかくらけんゆ)、14番目の王女として生まれました。生まれた年は定かではありませんが、1906年〜1907年あたりと言われています。
芳子が生まれた時期の清王朝は、中国国内の内乱やヨーロッパ列強の侵略によって弱体化していました。
1911年に起きた辛亥革命によって、清王朝は危機的な状況に陥り、粛親王の一族も北京から旅順へと逃れることを余儀なくされました。
この逃亡の旅を手助けしたのが、粛親王の顧問だった日本人の川島浪速(かわしま なにわ)でした。
当時の中国大陸では、様々な野心を抱く「大陸浪人」と呼ばれる日本人たちが活動していました。※大陸浪人とは明治から昭和初期頃まで中国大陸各地に居住・放浪して、種々の画策を行った日本人の称。「支那浪人」とも呼ばれる。
川島浪速もその一人で、満蒙独立運動に夢を馳せていました。日本の力を借りて清王朝を復興させようとする粛親王と、大陸で名を上げたい川島浪速の利害関係は一致していたのです。
粛親王は川島浪速を日本とのパイプ役とし、その関係を日本政府に強調するために、自分の娘を養女にすることを考えます。
そして第十四王女である「顕」(後の芳子)が選ばれたのです。彼女は8歳の時に東京へと渡り、川島浪速の養女となって「芳子」と名付けられました。
この養女縁組には、芳子の出生に関する正式な書類が存在せず、口約束のような形で結ばれたと言われています。
複雑な家庭環境
養父・川島浪速との関係は、芳子の波乱万丈の人生の始まりとなりました。
芳子が女学生だった頃、養父・川島浪速の満蒙独立運動は挫折し、実父・粛親王も亡くなりました。
北京に戻ることが叶わなかった芳子は日本に残り、男勝りで活発な少女として育ちました。乗馬や剣道、射撃をこなし、養父・川島浪速からも男らしい姿を好まれ、褒められたといいます。
しかし川島浪速は「清王朝の血を引く芳子に、自分の子を生ませたい」という歪んだ欲望を抱いていました。芳子が養父による欲望の犠牲になったのかは不明ですが、この時期の芳子に何かが起きたのは確かです。
芳子は日本髪で美しく結い、コスモスの中で写真を撮ったあと、すぐに髪を切り落とし「今日から私は男になる」と宣言したのです。
男装の麗人
若い頃の芳子には印象深いエピソードが数多く残っています。
友人のためにヌード写真を売ったり、失恋の末にピストルで自殺未遂を図るなど、芳子の胸中には早い段階から深い絶望感があったことがうかがえます。
芳子の断髪・男装の姿は日本の新聞に掲載され、瞬く間にマスコミの注目を集めました。取材記者が彼女のもとを訪れるようになり、彼女は「男装の麗人」と呼ばれるようになります。
芳子の端正な顔立ちや清朝皇室出身という血筋は高い関心を呼び、多くの女性が彼女を真似て断髪するなど、社会現象を引き起こしました。
しかしいくら男になると言っても、芳子は女でした。
1927年、21歳になった芳子は政略結婚をさせられます。お相手は、蒙古の勇将バボージャブの遺児・カンジュルジャブでした。
川島浪速は満蒙独立と清王朝復活の夢をまだ諦めておらず、その計画の一環として芳子の結婚を利用したのです。
伝説の女スパイ
しかし芳子はモンゴルでの暮らしに馴染めず、3年足らずで離婚することになります。
日本に帰国した芳子には居場所がなく、孤独感を深め、新たな居場所を求めるようになりました。
そして芳子は「上海」という街に惹きつけられます。当時の上海は、ヨーロッパの列強やアメリカ、ロシア、日本などの国々が中国の利権を狙って租界を設置し、夢と欲望が渦巻く街となっていました。様々な人々が上海へと流れ込み、独特な雰囲気を醸し出していたのです。
芳子は上海へと渡り、諜報活動に身を投じました。
男装をして夜の街を駆け抜け「伝説の女スパイ」としての道を歩み始めたのです。
上海でのスパイ活動
1930年、芳子は活気溢れる上海の街へと渡り、運命的な出会いを果たします。
諜報活動のプロである、日本陸軍の田中隆吉(たなか りゅうきち)少将です。
芳子は愛人関係となった田中隆吉の指示に従い、毎夜ダンスホールに足を運び、日本軍の敵である中国国民党の幹部たちに色仕掛けで接近し、スパイとして活動しました。
芳子は「日本が中国を救い、清王朝を復活させる」という夢を信じていました。「清王朝王女の役目」を全うしようと強い決意を抱いていたのです。
日本の中国侵略は、1932年の満州国建国という形でより明らかなものとなりました。満州国の皇帝には清王朝のラストエンペラー・溥儀が担ぎ上げられ、芳子は溥儀の妻・婉容を満州に連れ戻す重要な役割を担いました。
さらに日本軍は上海での事件を画策。中国人暴徒から日本人を守るという大義名分によって「上海事変」を引き起こします。
上海事変は、日本軍と中華民国軍との武力衝突事件です。日本が中国への侵略を本格化させるきっかけとなり、日中戦争の勃発につながりました。
この作戦を主導したのが田中隆吉で、芳子もスパイとして重要な役割を果たしたと考えられています。
日本軍に利用された芳子
また、芳子をモデルにした村松梢風による小説『男装の麗人』が大ヒットしたことで、華麗な女スパイとしてのイメージが確立されていきます。
軍服姿で上海のキャバレーに出入りする芳子の姿は「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」などと言われ、多くの人々を魅了しました。
しかし、実際には芳子が兵を率いて戦ったわけではなく、日本軍の宣伝に利用されていたのです。
そして日本の中国侵略が激しさを増す一方で、芳子も次第に利用されていることに気付いていきました。
芳子と懇意にしていた女優で歌手の山口淑子(李香蘭)は、以下のような手紙が芳子から送られてきたと、自著で述懐しています。
「僕のようになってはいけない。今の僕を見てみろ。利用されるだけされて、ゴミのように捨てられる人間がここにいる」
1935年あたりを境にして、芳子の人生は大きく変化していきます。
天津で中華料理店を開きましたが、体の弱さが顕著になり、日本に帰国するたびに奇行が目立つようになります。
ホテルや病院などで金銭トラブルやセクハラを訴えて騒動を起こし、次第に周囲との距離が生まれていきました。
中国国民政府に逮捕される芳子
日中戦争から太平洋戦争へと拡大した戦争は、1945年の日本敗戦で終結を迎えました。
芳子は各地に潜伏していましたが、10月頃に北平でスパイ容疑として中国国民党政府に逮捕されました。
そして国賊、売国奴として訴追され、2年後の1947年10月に死刑判決が下されます。
芳子は、養父・川島浪速に日本人であることの証明を求めました。
自分が日本軍のために働いたことをアピールすることで、中国人ではなく日本人であることを証明しようとしたのです。
しかし再審請求は却下され、芳子は絶望の淵に立たされました。
獄中では、病弱な体を押して明るい文体の手紙を秘書に送り続けました。寂しがり屋で相手を気遣う性格が、手紙の文面から伝わってきたそうです。
また法廷では毅然とした態度を崩しませんでした。自分以外の人を守ろうとし、孤独の中でピエロを演じることでプライドを守っていたのではないかと推測されています。
1948年3月25日、芳子は銃殺刑に処されました。
しかし2カ月後、日本の新聞で「芳子の生存説」が報じられ、それ以降「川島芳子は生きている」という噂が根強く囁かれ続けています。
養父との歪んだ関係、スパイとして活動した上海時代、日本軍に利用された挙句の逮捕、そして謎めいた生存説など、芳子の人生はドラマチックなエピソードに満ちています。
「男装の麗人」として注目を集めながらも、彼女の人生は強い虚無感と孤独感に彩られていたのです。
参考文献:山崎洋子(1995)『歴史を騒がせた[悪女]たち』講談社
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