敗戦後、日本国中だれもが空腹を抱えていた1946年1月22日、東京板橋区の陸軍倉庫から大豆380俵、木炭450俵など大量の物資が発見されました。
これらは政府主導で隠匿された旧日本軍の保有物資であり、当時は「隠退蔵物資(いんたいぞうぶっし)」と呼ばれました。
この事件は新聞で大きく取り上げられ、映画館ではニュース映像が上映されています。
当時の国家予算の4倍を超えるとされる「隠退蔵物資」はいかにして生まれ、どこへ消えてしまったのか?
著作家・貴志謙介氏の著書『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』をもとに紐解いてみたいと思います。
1.軍需物資の隠匿を秘密裡に決めた政府
昭和20年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾したこの日、鈴木貫太郎内閣は閣議決定を行い、通達を出しました。
『軍其の他に保有する軍需用保有物資私財の緊急処分の件』と題された文書は、連合国軍の上陸前に陸海軍に軍需物資を放出することを命じる通達でした。
連合国軍が上陸すれば、軍の保有物資は差し押さえられてしまいます。「それならば取られる前にさっさと処分してしまおう」という決定が、降伏と同時になされたのです。
戦時中、人々は政府の要請によって、金属や宝石などありとあらゆる物資を供出させられていました。
つまり軍の保有物資は、元はといえば、政府がかき集めた国民の財産であり、国民に返されるべきものです。
しかし、この決定は国民に知らされることはなく、大量の物資を山分けして甘い汁を吸えるのは、軍人、御用商人、官僚、政治家など一部の人間だけでした。
政府から通達を受け取った陸軍は、全国の部隊に早急に物資の放出を命じる機密指令『陸機三六三号』を発令します。
『陸機三六三号』では、「払下げは原則として有価とす。ただし、払下げ代金は直ちに全額支払いを要せず」とされ、軍需物資は「地方政府」、「民間工場」、「民間人」に分配すると記されていました。
しかし実際には、「民間工場」は軍人が役職についている軍需工場、「民間人」とは軍のお抱え商人を意味していました。
貴志氏は『陸機三六三号』についてこう指摘しています。
「要するに、これは、国民の財産を横領することを国家が黙認するという、驚くべき指令なのである。」『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』
2.マッカーサー到着までの2週間で行われた、軍需物資の放出と隠匿
軍需物資処分が閣議決定された8月14日から、マッカーサーが到着するまでの約2週間の間、軍やエリート官僚、軍御用達の商人による軍需物資の放出と隠匿が始まりました。
まず、軍需物資を貯蔵していた造兵廠(ぞうへいしょう : 兵器や弾薬などを製造する工場)から大量の物資が運び出されました。
8月16日には、各部隊に文書焼却指令が出され、機密保持のため軍関係の文書を焼却するように指示がなされます。外務省、内務省、大蔵省でも公文書の焼却が始まり、日本のいたるところで大きな煙が立ち上っていたそうです。
こうした政府と軍部の不穏な動きを察知した米軍は、8月20日、日本軍の資産には手を出さず保持せよという命令をしたためた「一般命令第一号」を日本の降伏使節に手渡しますが、東久邇宮内閣はこの命令に従いませんでした。
そしてマッカーサー到着の2日前の8月28日、軍需物資放出の指令を取り消す閣議決定を行い、機密指令を撤回しましたが、この時には既に軍が保有していた物資の約70%が消えていたのでした。
3.国家予算の4倍の食料と物資が消えた
軍の保有物資の緊急処分では、兵器、ガソリン、工業製品、貴金属、食糧などありとあらゆるものが放出され、一部の者がそれらを隠匿しました。
その額は約2400億円といわれており、1946年度の国家予算560億円の約4倍にのぼります。(『改訂新版 世界大百科事典』)
横領された物資は、軍の倉庫、廃墟、海底などに隠された他、ヤミ業者の手を経て闇市で処分されました。
ヤミ物資は統制価格の何百倍にも跳ね上がり、闇市は大繁盛。莫大な利益は、物資を隠匿して横流した軍人や官僚、実業家、ヤミ業者で山分けされ、一部の政治家にも流れていきました。
当時の蔵相・渋沢敬三が「一千万人の餓死者が出る」と発言するほど、人々が飢えに苦しむ裏で、隠退蔵物資のおすそ分けに預かれたブローカーや軍人、官僚、政治家が私腹を肥やしていた可能性が高いのです。
さらに「米国戦略爆撃調査団」の報告書には驚愕の事実が記載されており、貴志氏は次のように述べています。
驚くべきことに、敗戦直後の日本には、「経済を優に2年間支えるだけの物資があり、食糧も大量に備蓄されていた」のである。もし、この食糧が公平に分配されていれば、数えきれないほどの餓死者の生命が救われていたことは間違いない 『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』
戦後の凄まじい食料不足の一端は、軍人や政治家による悪事によって作り出されたものだったのかもしれません。
4.さいごに
板橋の事件をきっかけに、全国各地で次々に隠匿物資が発見されました。
当時の様子は、ニュース映像で見ることができます。
『こんなところに隠匿物資 -外務省-<時の話題>』
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009181449_00000
『物資はまだある 世耕事件』
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009181967_00000
『隠退蔵物資はどうなったか-大造事件- 大阪』
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009182031_00000
隠匿物資の問題を重く見た政府は、1947年7月25日、衆議院に「隠退蔵物資等に関する特別委員会」を設置しました。
さらに、東京地方検察庁に物資を摘発する組織「隠退蔵物資事件捜査部」が発足します。
この組織が、後に政界汚職や脱税事件などを手掛ける「東京地検特捜部」へとつながっていったのでした。
参考:
『暴かれた隠匿物資』
貴志謙介『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』NHK出版
『改訂新版 世界大百科事典』平凡社
文 / 草の実堂編集部
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