明治から昭和にかけて活躍した三浦環(みうらたまき)は、日本人として初めて世界的な名声を得たプリマドンナである。
彼女は、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ『蝶々夫人』に出演し、その回数は通算で2,000回にも及んだ。
海外ではその歌声と舞台上の所作が高く評価され、「世界のプリマドンナ」として称賛を浴びた。
しかし、当時の日本では、夫ではなく音楽の道を選び続けた彼女を「自分勝手」と非難する声も少なくなかった。
それでも環は困難に屈せず、世界中で人々に歌を届け続けた。彼女の生涯とは、どのようなものであったのだろうか。
目次
類稀な美声の持ち主
明治17年(1884)2月、三浦環(みうらたまき)は公証人の父・柴田熊太郎(後に孟甫と改名)と母・登波の間に東京で生まれた。
父方の祖母は声が美しく「うぐいす小町」と呼ばれるほど唄が上手かった。環はその祖母に似て美しい声を持っていた。
そんな環は幼少期から日本舞踊、長唄、箏曲を習い始めた。小学生の頃には、大人たちの前で歌い「素晴らしい声だ」と褒められるほどだったという。
その後、良家の子女が通う東京女学館に入学した環は、音楽教師から「ぜひ音楽学校へ進むべきだ」と勧められ、音楽家を目指す決意を固めた。しかし、父・熊太郎は娘に早く結婚することを望み、進学には反対した。
それでも進学したいと願う環に対して、父は条件として「私が選んだ相手と結婚するなら進学を許す」と告げた。環はこれを受け入れ、明治33年(1900)、東京音楽学校へ入学する。
このとき、学校側は既婚者の入学を認めていなかったため、環は父が選んだ陸軍軍医・藤井善一と内祝言だけで形式的に結婚した。
その後、藤井が北京に赴任したことで、環は音楽に専念できた。
そして在学中の明治36年(1903)、日本初のオペラ上演『オルフォイス』でソプラノの主役エウリディーチェ(百合姫)役を務め、観客を魅了した。
また、当時の環は赤い自転車で通学しており、その姿は「自転車美人」として評判になった。
この人気から、彼女を主人公のモデルにしたのではないかと噂される新聞小説が連載を始めるほどであった。
明治37年(1904)、環は本科を卒業後、研究科へ進み、同時に授業補助(助手)を命じられ、学生たちを指導する立場となる。
音楽家としての環の第一歩は、こうして確かなものとなったのである。
最初の夫と離婚し、芸術に理解がある男性と再婚
明治39年(1906)、環の夫・藤井善一が東京へ転勤したことで夫婦の同居生活が始まった。
しかし当時の環は40~50人の生徒を教え、自宅でもレッスンを行うなど多忙を極めていた。しばらくして藤井の仙台赴任が決まり、夫は環にも同行を求めたが、音楽を続けたい環はこれを拒否した。
そして明治42年(1909)、意見の相違は修復されず、二人は離婚に至った。
当時、このような理由での離婚は世間ではとんでもないことであり、新聞や雑誌が競って「藤井環離婚」を報じた。
このスキャンダルが環の名をさらに広める一方で、彼女に求婚の手紙を送る者も増えたという。
その中に、遠縁にあたる東京帝大附属医院内科助手の三浦政太郎がいた。三浦は以前から環に思いを寄せており、手紙を送ったのを機に環の家を訪れるようになっていった。
その後、三浦と環が密会していると新聞記者に報じられ、三浦の上司や周囲の人々から批判を受ける。しかし、三浦は職を辞して交際を続け、環も周囲の騒動によって音楽学校への辞表を提出した。
こうして二人は芸術と音楽に対する理解を共有し、結婚に至ったのである。
結婚後、二人はそれぞれの分野を深く学ぶため、ドイツ留学を目指すことを決意する。三浦は留学資金を貯めるためにシンガポールへ単身赴任し、環は帝国劇場と契約を結び、歌劇部のプリマドンナとして舞台で活躍した。
しかしこの頃、環は彼女を支援していた新聞記者・千葉秀甫の執拗な求婚と接触に悩まされた。千葉は環に恩を売るようになり、結婚を迫り、頻繁に押しかけるなど、環は身の危険すら感じるようになった。
耐えかねた環は密かにシンガポール行きの船を手配し、現地で三浦と再会した。千葉は環を追ってシンガポールまで訪れたが、三浦の友人たちの助力で環は無事に千葉から逃れることができた。
その後、大正2年(1913)5月、二人は日本へ帰国した。
オペラ『蝶々夫人』に出演し、世界のプリマドンナとなる
翌大正3年(1914)、三浦環(みうらたまき)と三浦政太郎はドイツへ渡ったが、第一次世界大戦の戦火を避けてイギリスのロンドンへ移動する。
環は声楽をさらに磨くため、当時絶大な人気を誇る指揮者ヘンリー・ウッドに手紙を書き、自らの歌声を直接披露する機会を得た。
ウッドは彼女の歌声を聴き、「あなたの歌声は素晴らしい。ほとんど完成した声楽家に私が教えることはない」と高く評価したという。
その後、環はロンドンのアルバート・ホールで開催された音楽会に出演し、観客から喝采を浴びる。一夜にしてスターとなった環のもとには、音楽会への出演依頼が次々と届くようになった。
そして、翌大正4年(1915)春、環にオペラ『蝶々夫人』(マダム・バタフライ)の出演依頼が舞い込む。この作品は日本の長崎を舞台に、藩士の娘であった蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの悲恋を描いたものであった。
環はこの依頼に迷いながらも、夫の政太郎から「ぜひ挑戦すべきだ」と背中を押され、5月にロンドンのオペラハウスで日本人初のプリマドンナとして『蝶々夫人』に出演した。この公演は絶賛され、環の名声はさらに広がった。
評判は大西洋を渡り、アメリカからも出演依頼が届くようになる。環は政太郎とともにアメリカへ渡り、各地で『蝶々夫人』を上演して成功を収めた。
アメリカ滞在中、政太郎は大学に通い医学の研究を進めながら環を支えた。しかし在留邦人の間では、「夫を鞄持ちにしている」「生意気だ」などと環に対する批判や噂が広まる。
それでも環は気に留めることなく、舞台での活躍を続けた。
大正9年(1920)、環は『蝶々夫人』の作曲者ジャコモ・プッチーニの別荘に招かれる。
プッチーニは環に対し、「あなたは世界にたった1人しかいない、最も理想的な蝶々さんです」と称賛し、環の地位はさらに確固たるものとなった。
一時帰国後、夫を残し再び海外へ。そして夫との永遠の別れ
2年後の大正11年(1922)、環はイタリア人音楽家アルド・フランケッティとともに一時帰国した。
環はフランケッティと共に日本全国を巡り、独唱会を開催する。しかし、先に帰国していた夫・政太郎は、環がフランケッティと行動を共にしていることを快く思っていなかった。
環とフランケッティは互いに芸術家としての尊敬を持つ良き友人であったが、時には腕を組んで歩く二人の姿を見た世間は、様々な噂を立てた。
やがて環が再び日本を発つ日が近づくと、政太郎とその親族は環の外国行きに強く反対し始めた。さらに、政太郎は環の舞台契約を勝手に破棄しようと試みたが、環はその状況にも屈することなく、ホノルルでの舞台出演契約を果たすため、日本を後にした。
環は出発前に政太郎に対し、「あなたがビタミンの研究で博士号を取得したら帰国します」と約束した。
そして大正13年(1924)、政太郎はビタミン研究で博士号を取得したが、環は多忙を極め、帰国の約束を果たすことはできなかった。
その後、昭和4年(1929)、政太郎は急性腹膜炎でこの世を去ってしまった。
環が帰国したのは昭和7年(1932)のことだった。帰国後、彼女は初めて政太郎の墓を訪れる。
その場で環は涙を流しながら独唱を捧げた後、墓石を抱きしめたという。
この行動は一部の人々から「悲劇のヒロインを演じている」と批判されたが、環にとっては深い感謝と愛情の表現であった。
オペラ『蝶々夫人』への出演2千回記録を達成
その後も環は海外の舞台に立ち続け、昭和10年(1935)、イタリアのシチリア島パレルモにてオペラ『蝶々夫人』出演2,000回の記録を達成する。
この大記録を機に環は国際舞台から引退し、帰国を決断した。
帰国後、環は日本国内でも『蝶々夫人』の公演を実現したいと願ったが、当時の日本ではオーケストラの発展途上や資金不足などの課題が立ちはだかっていた。それでも環の熱意と覚悟に心を動かされた人々の支援を得て、翌昭和11年(1936)、ついに歌舞伎座で『蝶々夫人』の公演を実現することができた。
この際、観客が作品をより深く理解できるよう、日本語でのセリフや解説をプログラムに掲載するという工夫も行われたという。
しかしその後、日本国内では軍国主義が強まり、『蝶々夫人』は「敵性音楽」とみなされ、上演や演奏が困難となる。
昭和19年(1944)、環は山梨県の山中湖近くの村へ疎開し、そこで疎開してきた母親の看病をしながら静かな日々を送った。
翌昭和20年(1945)、母親が亡くなったが、環は地元の子供たちに歌を教えるなど、地域の人々と親しく交流し、歌手としての役割を果たしていた。
戦争が終わると、環はその年の暮れに日比谷公会堂で独唱会を開き、シューベルトの歌曲集『冬の旅』を披露した。しかし、この頃、環の腹部にはガンが進行しており、体調は著しく悪化していた。
それでも翌昭和21年(1946)3月、再び日比谷公会堂で独唱会を開催。この時の環は歩行も周囲の助けを必要とし、舞台袖には医師が待機する状態だったが、彼女は観客のアンコールに応えて最後まで歌い切った。
その後も歌手としての情熱を失わず、4月にはNHKの録音で『蝶々夫人』のアリアを含む数曲を歌い残した。
そして同年5月26日、環は62歳でその人生の幕を閉じた。
当時の日本では環のように音楽一筋に生きる女性は珍しく、しばしば理解されなかった。それでも環は持ち前の素直さとしなやかな強さを武器に、多くの困難を乗り越え、自らの運命を切り拓いていった。
最期まで歌を愛し、歌に愛された彼女の生涯は、まさに華麗そのものであったといえよう。
参考 :
大石みちこ「奇跡のプリマ・ドンナ オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて」
中江克己「明治・大正を生きた女性」第三文明社
文 / 草の実堂編集部
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