長年苦楽を共にした比翼連理な夫婦であっても、パートナーとの永遠の別れは避けられないもの。
相手よりも先に逝きたい、はたまた相手よりも絶対後に、と願ってみても、こればかりは思い通りにはいきません。
同い年だったやなせ夫妻の場合、やなせ氏は病気がちで「先にお迎えが来るのは自分だろう」と思っており、妻の暢さんもそのつもりでいたそうです。
しかし、運命は皮肉なもので、人生の幕引きは思惑通りにはいきませんでした。
今回は、やなせ氏と暢さんの別れの時に迫ります。
暢さんのために終活するやなせ氏

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1985年、66歳のやなせ夫妻は、これからの人生について考えていました。
漫画家としてのピークはとうに過ぎ、これからは海外旅行をしたり、絵を描いたりしてのんびり暮らしたい。そんな思いを胸に、二人は一戸建てからマンションへと住まいを移し、老後に備える簡素な暮らしを始めます。
しかし、静かな日々の中でふと頭をよぎるのは、どちらが先に逝くのかという切実な問いでした。
やなせ氏は短命の家系で、暢さんは長命の家系。しょっちゅう体調を崩しては病院にお世話になっている夫と、元気に山登りを楽しんでいる妻。
どう考えても妻の方が長生きするだろう、と思っていたやなせ氏でしたが、そう思っていたのは本人だけではなく、なんと妻の暢さんも同じように考えていたようです。
「あなたが死んだら、私はどうやって生活していけばいいのかしら。貧しい暮しはいやだわ。」
そう言って、暢さんはせっせと貯金するようになり、やなせ氏もマンションの名義変更や生前贈与など、残される暢さんのための終活をはじめました。
手続きも無事に終わり、これで準備万端。
最後は頼りになる妻に看取ってもらおう、と安心して仕事に専念していたやなせ氏に、思いもよらぬ事態が起きたのは1988年の秋のことでした。
「余命3ヶ月」絶望の淵に立たされるやなせ氏

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1988年10月、アニメ「それいけ!アンパンマン」の放映開始直後、暢さんが体調を崩したのです。
普段、少しくらいのことでは病院に行かない彼女でしたが、何か察するところがあったのでしょう。その時だけは、自分から自宅近くの東京女子医大病院へ足を運びました。
診察の結果は、乳ガン。
緊急入院し手術を受けましたが、担当医がやなせ氏に告げたのは「余命3ヶ月」という衝撃的な事実でした。
頭の中が真っ白になるやなせ氏。
やれ白内障だ、やれ尿路結石だと、手術や病気のときは全力で看病をしてくれた妻なのに、その妻の不調になぜもっと早く気づけなかったのか。悔恨の念に胸を締め付けられ、自分を責め続けました。
そして、「覚悟はできているから本当のことを教えて」と暢さんに詰め寄られても、言葉につまりながら、「悪いところは全部とったから大丈夫、すぐ退院できるよ!がんばれ!」そう言うのが精いっぱいで、どうしても本当のことを告げることはできませんでした。
驚異的な回復をみせる暢さん

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ところが、絶望するやなせ氏をよそに、暢さんはみるみる元気になっていきました。
少しずつ体重が増え、身体もふっくらとして、趣味の山登りができるほど驚異的な回復を遂げたのです。
お茶の教室も再開し、少々口やかましいところはあるものの、以前のハツラツとした暢さんが戻ってきました。
そして、やなせ氏の人生も最高の時を迎えていました。
1988年に始まったアニメ「それいけ!アンパンマン」は全国放送となり、アンパンマンブームが到来。絵本の販売部数は一千万部を超え、次から次へと仕事が舞い込みます。
1990年には『アンパンマン』が日本漫画家協会大賞を受賞し、翌年には勲四等瑞宝章を受章。
勲章なんて身分不相応と気おくれしていたやなせ氏でしたが、できるだけ暢さんと一緒に記念になることをしようと思いなおし、勲章伝達式に二人で出席することにしました。
式のための訪問着を並べて「これはどう?こちらの方がいいかしら?」と鏡の前で楽しそうに思案する暢さん。
肩のあたりに少しやつれが見えるものの、子どものように喜ぶ妻の姿に、やなせ氏は愛おしさを覚えるのでした。
また、受勲を記念して行われた「アンパンマンの勲章を観る会」に出席した暢さんは、パーティーがよほど楽しかったのでしょう。
「こんなに楽しいパーティーなら、私の友達を招待すればよかった」と言って悔しがりました。
パーティー嫌いの妻の珍しい一言に、やなせ氏は、「次のパーティーには君の友達を全員招待しよう」と笑顔で答えました。
その笑顔の裏で、妻がもっと若い頃にこんな場に連れてきてあげたかった、という思いが込み上げてきます。
長年苦労ばかりさせてしまって申し訳ない。そんな気持ちがあふれ、自分の不甲斐なさに胸が痛むのでした。
1993年7月、やなせ氏は約束通り『アンパンマン』の20周年を祝うパーティーを開催しました。
しかし、病魔は暢さんの身体を蝕み続けていたのでしょう。
直前になって体調が急激に悪化し、パーティーへの参加は叶いませんでした。
それから4か月後の11月22日、暢さんは帰らぬ人となりました。享年75。
やなせ氏は、入院先のベッドに横たわる妻の手をずっと握り続け、心肺停止の瞬間を見届けました。
最愛の同志を失って

画像 : 香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム wiki c 京浜にけ
暢さんの遺志に従い、亡くなったことは公にせず、静かに身内だけで葬儀を済ませました。
それからの日々、やなせ氏はまるで霧の中をさまようように過ごしていました。
生活のすべてを暢さんに委ねていたため、自分の収入も服のありかさえもわかりません。夜は眠れず、食も細くなり、体重は減る一方です。
それでも悲しみを見せず、次から次へと押し寄せる仕事を黙々とこなす日々を送っていました。
そんな状態が三か月ほど続いたある日、不思議なことに、ふと体調が上向き始めたのです。
そして暢さんの一周忌を済ませた頃、
「与えられた命をちゃんと生きなければ、向こうに行ったとき、カミさんと合わす顔がない。」
やなせたかし『絶望の隣は希望です』より
やなせ氏は再び前を向き、これからは何を目標に生きるべきかを考え始めました。
アンパンマンはまるで自分たちの子どものような存在。子どもに家を建ててやりたい。やなせ氏の胸に浮かんだのは、「故郷・香北町に美術館を建てる」という新たな目標でした。
そして1996年、「やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム」が開館。 77歳を迎えたやなせ氏は、夢をかたちにしたのです。
それは二人が共に歩んだ人生の証であり、墓標のようにも思えました。
その後もやなせ氏は精力的に創作活動を続け、2013年、94歳で亡くなりました。
「月刊高知」編集部で運命の出会いをした二人。復興ままならぬ東京での同棲生活では、天井に穴の開いたトイレで、傘をさして用を足す生活を送りました。
苦労をものともせず、一緒に歩み続けてきた離れ難い戦友だった妻。その妻の喜ぶ顔がなによりも好きだった夫。
やなせ夫妻が生み出したアンパンマンは、二人の亡き後、今でも子どもたちに愛と勇気を与え続けています。
参考文献
梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』文芸春秋
やなせたかし『絶望の隣は希望です!』小学館
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部
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