どうする家康

軍隊は規律が大事!豊臣秀吉が九州征伐を前に発した軍法とは 【どうする家康】

古来「烏合の衆」とはよく言ったもので、いくら人数ばかり多くても、統制がとれなければてんでんばらばら。まるで役に立たないばかりか、有害無益なことも少なくありません。

まして生き死にを賭けた合戦ともなれば、みんなで力を合わせて生き抜かねばならず、そのために統一したルールが必要不可欠となってきます。

そこで大将たる者、しかるべき軍法を定めて全軍に徹底させることに苦心していました。

今回は天下人・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし。羽柴秀吉)が発した軍法を紹介。

時は天正15年(1587年)、九州征伐の途上です。

軍令は全部で七ヶ条

九州征伐

歌川豊宣「新撰太閤記」より、九州征伐の図。

一、兵粮並に馬の飼料、九州へ令参着(さんちゃくせしむる)の日より可被下行(げぎょうさるべき)の事

一、出勢の日次(ひなみ)、二月二十日より無相違(そういなく)出立(いでたち)、泊々の不差合様(さしあわざるよう。ダブルブッキングの無いよう)、宿奉行次第可守於其旨(そのむねにおいてまもるべき)事

一、喧嘩口論は、双方共に其罪遁間敷事(その罪、のがるまじきこと)

一、追立夫、押買、諸事狼藉等有間敷事(あるまじきこと)

一、奉公人、先主に暇を不乞(こわず)別に主取候を、先主見付候而(そうろうて)、理不尽に誅戮仕候者(ちゅうりくつかまつりそうろうは)、還而(かえって)可為越度(おちどとなすべし)、見付次第当主人に相断(相談)、其上にて可申付(もうしつくべし)、又届有之後(これありてのち)其者を逃し候者(そうらわば)、当主人可為越度(おちどとなすべき)事

一、城責(城攻め)の事、相定(あいさだむ)る攻手の外不可出合(であうべからざる)事

一、戦場先陣後陣は、軍奉行の下知に任せ、私の働き有間敷事

右軍法を背き、自由の駆引於有之者(これあるにおいては)、可被処厳科(げんかにしょさるべき)者也。依て如件(くだんのごとし)

天正十五年正月十一日

【意訳】

一つ。兵粮や馬の飼料については、九州に到着した日から下行(げぎょう。支給)するから、心配は要らない。

一つ。出発の日取りは2月20日であるから、間違えないように。道中の宿泊については、宿奉行に手配させてあるから、その指示に従うように。

一つ。喧嘩や口論については、どちらに非があろうとなかろうと、事情を問わず罪を逃れることはできない。

一つ。庶民を無理やり軍勢に動員する追立夫(おったてぶ)や、商人を脅して不当な安価で物品を購入する押し買い、その他乱暴狼藉など行った者は罪に問う。

一つ。主人(先主)に断りなく脱走した奉公人が、次の主人に仕えているのを発見した場合。ついカッとなるのも解らんではないが、理を尽くさず(事情を確かめず)に成敗してしまうのはかえって落度というものである。

そういう場合はまず現在の主人に相談し、その上で処分を決めなさい。また相談を受けた主人は、その奉公人を匿ったり、逃がしたりしてはならない。

一つ。城を攻める際、攻撃するのは指定された部隊の者に限る。それ以外の者が手柄欲しさにしゃしゃり出てはならない。

一つ。戦場における先陣・後陣の配置は軍奉行(いくさぶぎょう)の下知にしたがい、私(わたくし。勝手)に作戦行動をとってはならない。

以上の軍法に背き、自分勝手に兵を動かした者は、厳しく処罰する。確かに申し伝えた。

……全部で七ヶ条に及ぶ軍法を、さらに噛み砕くと以下の通りになります。

(1)兵粮や飼料の心配は要らない(だから、ちゃんと動員に応じなさい)。

(2)出発に遅れるな。道中の宿泊も心配は要らない。

(3)喧嘩両成敗。

(4)領民や商人など、他人様に迷惑をかけるな。

(5)脱走者を勝手に殺すな。

(6)城攻めは指定された部隊のみで実行する。

(7)勝手に前進・後退して戦列を乱すな。

やはり軍隊は統率が一番大事。昔から「段取り九割」とはよく言ったもので、味方がキチンと動ければ、敵の方から勝手に崩れて負けてくれます。

個々の武勇に依存することなく、淡々と兵を進める様は一見面白みはなくても、勝利のためには必要不可欠。

このようにして、秀吉は九州戦線でも勝利をつかみ、ついには薩摩の雄・島津義久(しまづ よしひさ)を屈服せしめたのでした。

終わりに

九州征伐

天下統一に邁進する豊臣秀吉。狩野随川筆

かくして中国・四国・九州を制圧して西日本を掌握した秀吉。亡き主・織田信長(おだ のぶなが)が夢見たであろう天下統一まであと少しです。

【秀吉の九州征伐・略年表】

天正13年(1585年)10月 秀吉が島津ら九州の大名らに惣無事令(停戦命令)を発布。
天正14年(1586年)6月 秀吉が停戦命令に従わない義久の討伐を命令。
天正15年(1587年)4月 義久が豊臣秀長(ひでなが。秀吉弟)に謝罪。
同年5月 義久が出家、正式に降伏して和睦成立。秀吉は義久を赦免。
同年6月 戦後の論功行賞(九州国分-くにわけ)を実施。

残るは関東の北条氏政佐竹義重、奥州の蘆名義広伊達政宗南部信直、等々。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、秀吉がどんな九州征伐を見せてくれるのか、その規律や軍容などにも注目したいですね。

※参考文献:

  • 稲垣史生 編『戦国武家事典』青蛙房、1981年7月
  • 小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年9月
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【大坂夏の陣】14歳が二度あるか! 初陣で男泣きした徳川頼宣(家…
  2. 穴山梅雪は、なぜ武田勝頼を裏切って家康についたのか? 前編 「長…
  3. 【どうする家康】山県昌景だけじゃない!信玄・勝頼を支えた武田四天…
  4. 関ヶ原の合戦で、上杉景勝と戦った結城秀康。なぜ彼は殿軍を引き受け…
  5. 武田信玄「幻の西上作戦」 前編~「なぜ家康との今川領侵攻の密約を…
  6. 【小牧・長久手の激闘】徳川四天王の名は伊達じゃない!“鬼武蔵”森…
  7. 家康の側室・お葉(北香那が演じる)は史実ではどんな女性だった? …
  8. 今川義元の実像とは? 「僧侶になるはずだったが、戦国時代屈指の戦…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

悪魔達と聖人の壮絶な戦い 「各国の代表的な悪魔達」

「新約聖書」の最期に置かれた「ヨハネの黙示録」にはこんな一節がある。「天で戦いが起こった。ミ…

小田原梅まつりに行ってみた

神奈川県西部にある小田原市。その東に「曽我の梅林」があり、「小田原梅まつり」が開催されている…

外国人が理解しやすい「やさしい日本語」とは

グローバル化が進む日本近年、日本にも多くの外国人が仕事や留学、結婚などの理由で移住してき…

令和4年(2022年)は寅(トラ)年…ということで、虎に関することわざを紹介!

新年、明けましておめでとうございます。令和4年(2022年)は十二支の寅年。日本には棲息して…

脇坂安治 – 日本より韓国で有名な豊臣の水軍大将

脇坂安治とは脇坂安治(わきざかやすはる)とは「賤ヶ岳七本槍」として武功を挙げてその名を知らし…

アーカイブ

PAGE TOP