安土桃山時代

手紙から覗える伊達政宗の親子関係 「1000通以上の手紙が現存、超筆マメな人物だった」

手紙から覗える伊達政宗の親子関係

画像:伊達政宗 肖像画。土佐光貞 (1738 – 1806) 筆。東福寺・霊源院所蔵 public domain

いつの時代でも、親子関係は難しい。
考え方や思想の違いは、親子関係でさえ断絶を招く事態さえある。

今回は、戦国から国家平定へ向かう時代を生きた伊達政宗を例にとり、どのような親子関係だったかを手紙から紐解いていきたい。

長男 伊達秀宗への浪費注意

手紙から覗える伊達政宗の親子関係

画像 : 宇和島城 (伊達秀宗居城)wiki c Saigen Jiro

伊達政宗と長男・秀宗の親子関係は決して良好とは言えなかった。

主な理由は3つあった。

1. 長男だが、正室の子ではないため、伊達本家の後継になれなかった
2. 人質として、最初は豊臣家へ、後には徳川家へ預けられた
3. 大坂冬の陣参陣で宇和島10万石の大名となったが、浪費癖があった

秀宗は、幼い時から豊臣家や徳川家の人質になり、家中では誰よりも苦労した。
しかし政宗は、そんな息子の心情を理解せず、秀宗に浪費を注意する手紙を送った。

それは10万石大名に取り立てられた秀宗が、各所へ莫大な祝儀を配ったばかりか、同じ所へ重複して送った無駄を咎める内容だった。

付届けに大きな支出をするより、大坂の陣の戦費の借金返済に回す考えがあって欲しい」と綴ったのである。

政宗と秀宗の確執と和解

手紙から覗える伊達政宗の親子関係

画像:和霊神社(諫言で殺害された政宗が秀宗につけた家老・山家公頼を奉る)

1620年(元和6年)、政宗と秀宗の関係が決定的に悪くなる事件が起こる。

政宗は宇和島藩主となった秀宗に、以前からの家臣・山家公頼(やんべきんより)を家老として付けていた。

しかし山家公頼が何者かによって襲撃されて殺害されてしまったのである。さらに公頼の次男と三男、娘婿の塩谷内匠とその子2人も斬殺。9歳の四男も井戸に投げ込まれて死亡。生き残ったのは公頼の母と妻のみだった。

公頼は政宗から派遣された目付けとして、常日頃において秀宗に諫言をして疎まれていた。公頼を殺害したのは秀宗の命だったという説もある。

そして秀宗は、なんとこの大騒動を幕府や政宗に隠していた。隠していたことが発覚すると政宗から絶縁を言い渡されたのである。
それでも怒りが収まらなかった政宗は「宇和島藩の返上」を幕府に申請するが、幕府は不問とした。

事件後、政宗は冷静になって、秀宗と互いの胸を内を語り合った。
秀宗は、幼い頃から続いた長い人質生活の不安と心細さを語り、責めるばかりで労わりがない父に想いを打ち明けたに違いない。

対談後、政宗は宇和島藩政に一切口出ししない決意を側近・茂庭綱元に知らせた。

1622年(元和9年)、遠江守に就いた秀宗に、政宗は和歌添削に関する手紙を送った。
この手紙は要約すると

和歌の出来が遅いと歌会に間に合うず笑いものになるから、早く作れるようもっと学んでいくべき

と云う内容であった。

相手を詰る言葉はなく、和歌修行中の息子に「物事に拘らず作品を作るように」とアドバイスもしている。
政宗の和歌添削はその後も続き、秀宗の和歌・二首を良い出来栄えだと称賛するほどになった。

晩年の政宗と秀宗の関係は良好だったようである。

長女 五郎八姫へ礼状

手紙から覗える伊達政宗の親子関係

画像:五郎八姫像(瑞巌寺宝物館蔵)

成人した息子には厳しい男親の顔を見せた政宗だったが、娘にはどんな顔を見せたのか。

政宗が長女・五郎八姫(いろはひめ)に宛てた手紙が残っている。
その内容は、桃の節句祝いに酒や肴など送ってもらったことへのお礼や、仙台に五郎八姫を招待する予定がじきに決まるといったものだった。

当時、五郎八姫は家康の六男・松平忠輝との婚約が決まっていた。
娘が嫁ぐ前に、父の領地・仙台を見せたいという親心が覗える。

優しく分かりやすく書かれた文面で、秀麗な字体で綴られ、娘が繰り返し読み返す事を念頭に書かれたものと推測できる。

旅の便りを次女 牟宇姫へ

画像 : 政宗が牟宇姫へ出した手紙(角田市郷土資料館蔵)

次女・牟宇姫(むうひめ)に宛てた手紙も、五郎八姫以上に甘い父親の顔があった。

なにしろ牟宇姫は、政宗が四十二歳の時に生まれた娘である。
年を取ってから生まれた子は可愛いというが、政宗も例外ではなかったようである。

1634年(寛永11年)三代将軍・家光の上洛時に先駆け役を務めた政宗が、牟宇姫に以下のような内容の便りを送っている。

6月2日に江戸を出発し何事もなく旅を続け、近江(滋賀県)で3日間、人と馬の疲れを取るために休み、6月19日に京都へ着いた次第です。
上様のご上洛に先んじて、京都を目指す役割は非常に名誉に感じました。
用意された舟橋(川に並んだ舟に板を敷き渡る橋)も、私が最初に渡ったのです。
道の掃除等、幕府から細心の指図があったので、気持ち良く京都へ入りました。
京都到着の日は、私達の行列を見ようと在中の人々が沿道に出迎えてくれたので、大変混み合いました。
今も見舞客がひっきりなしに訪れ、手紙も落ち着いて書けない有様です。
詳細は後ほどしたためます。

牟宇姫は27歳の時に政宗の家臣・石川宗敬に嫁いでいるが、分別盛りの女性に語る口ぶりというより、旅の様子を聞きたがる子供に父が語るような調子である。

行列見物で混雑する京都民の様子、見舞客が次々訪れる描写を父が娘に自慢したいかのような心情が覗える。

終わりに

伊達政宗は、1.000通以上の手紙を書いた実に筆マメな人物だった。
現存している数でこれほどあることから、2,000~3,000通は書いたと予想できる。

当時、大名の多くは祐筆(公文書を代筆する書記係)を抱えており、直接筆を取ることはプライベートに限られることが多かった。
しかし政宗は、大名や公家にも自筆手紙を送っていた。

政宗が自筆で大名や公家に手紙を書いた理由は、和歌や漢詩の教養に通じ、書に優れ、手紙で心情を交わす方法を好んだからだった。
親子で交わされる手紙には、政宗の喜怒哀楽がにじみ出ている。

政宗が書いた自筆手紙が1,000通以上も代々保管されていたのは、独眼竜イメージと異なる情愛深い人物像だったからだろう。

参考図書
「伊達政宗の手紙」 佐藤憲一 著

 

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