安土桃山時代

織田水軍VS毛利水軍~木津川口の戦い 【信長の鉄甲船】

織田vs毛利

信長の鉄甲船

戦国の覇王となることを目指していた織田信長の水軍と、中国地方の最大の大名・毛利輝元率いる毛利家(毛利・吉川・小早川)の水軍が、大坂湾で激突した。

それは天正4年(1576年)7月に海戦した「第一次木津川口の戦い」と天正6年(1578年)11月に海戦した「第二次木津川口の戦い」である。

毛利家は西国一の領土を誇る中国地方の盟主であり、毛利水軍は中国地方最大の「小早川水軍」と、瀬戸内海を牛耳る海賊衆で無敵と言われた「村上水軍」の連合水軍だった。

今回は木津川口の戦いについて解説する。

海戦に至る経緯

戦国の覇王を目指し、畿内一帯を手中に治めようとする信長に強敵が現れた。
それは浄土真宗本願寺勢力、大坂石山本願寺の11世法主・顕如(けんにょ)との10年に渡る争いである。

信長の鉄甲船

本願寺顕如

天正4年(1576年)5月、石山本願寺は信長との天王寺の戦いで破れて信長軍に包囲され、顕如は毛利輝元へ援助(兵糧や武器・弾薬)を求めた。

本願寺は木津(現在の大阪市浪速区)や楼岸(現在の大阪市中央区)から海上を経由して兵糧や武器・弾薬を補給しようとした。

足利義昭の反信長体制の呼びかけに上杉謙信が同意して「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」の反信長同盟が成立したため、強気になった輝元は救援物資を大坂の木津川口から堂々と送り込むことにした。

そんなことを信長が黙って見ている訳もなく、織田水軍VS毛利水軍の「木津川口の戦い」となった。

第一次木津川口の戦い

信長の鉄甲船

第一次木津川口合戦 個人蔵 今治市村上水軍博物館寄託

信長は石山本願寺の包囲は出来ていたが、本願寺の補給路である海路までは完全に封鎖出来ていなかった。

7月13日、毛利連合水軍(毛利水軍・小早川水軍・村上水軍)は、約800隻もの大船団で大坂湾に姿を現した。

対する信長は配下の伊勢志摩の九鬼嘉隆(くき よしたか)を総大将とする九鬼水軍など、約300隻の織田水軍で迎え撃った。

7月15日、織田水軍と毛利連合水軍が海上で激突。

織田水軍は横に幅広く隊形を組んで毛利水軍を待ち構えていたのに対し、毛利水軍は縦に長い陣形を取って織田水軍に突撃していった。

毛利水軍は数で圧倒している上に、海賊衆で無敵と言われた村上水軍が強く、さらに村上水軍は「焙烙(ほうろく)」という火薬を詰めた爆弾を投げ込み、「火矢(火をつけた矢)」を巧みに使って織田船団を焼き払っていった。慌てた織田水軍の兵たちは次々と川へ飛び込み、船に残った兵たちは次々に討死していった。

一方陸上でも戦いは繰り広げられ、「楼岸砦」や「穢田城」から本願寺勢が出撃して信長方の「住吉海岸砦」を攻撃。
「天王寺砦」にいた信長の重臣・佐久間信盛隊が出撃して激戦となるも、長時間の戦いの末に佐久間隊は撤退した。

織田水軍は「焙烙・火矢」に船団の大部分が焼かれ、海・陸共に敗れて撤退するしかなく、毛利水軍は本願寺への兵糧や武器・弾薬の補給に成功した。

織田水軍は毛利水軍の数や戦術「焙烙・火矢」に完敗したのである。

信長自身も出撃する予定だったが、安土城で敗戦の知らせを聞くと出陣を取り止めた。

そして毛利水軍の強さを知った信長は、九鬼嘉隆に「焙烙・火矢」に対抗する燃えない鉄製の船を建造するように命じた。

第二次木津川口の戦い

信長の鉄甲船

織田水軍が使用した安宅船

九鬼嘉隆は大筒・大鉄砲を装備し、「焙烙・火矢」も効かない鉄甲船6隻を伊勢で建造させた。

鉄甲船の大きさは縦22m・横12mで、厚さ3mmの鉄甲で外板を覆ったとされ、当時としては空前の巨大さと防御力を持っていたという。

天正6年(1578年)毛利輝元は石山本願寺へ物資輸送をするために、再び毛利水軍を送り込んだ。

天正6年(1578年)6月26日、九鬼嘉隆は完成した6隻の鉄甲船を率いて、滝川一益の大船1隻と共に伊勢大湊を出発して大坂湾に向かった。

途中の淡輪(現在の大阪府岬町)周辺では、雑賀衆など多数の小船が織田船団を取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃を仕掛けて来た。
織田水軍の鉄甲船は敵を引き付けて大砲で一斉射撃するという戦術で、難なく雑賀衆らを撃退した。

7月17日に織田水軍は堺に到着。翌日には大坂湾に到着して要所に船を配備して大坂湾を封鎖した。

9月30日に信長は堺に行き、船を見物して九鬼嘉隆・滝川一益、そして彼らの家臣に褒美を与えたという。

11月6日、毛利水軍600隻が木津川口付近に姿を現し、午前8時頃から海戦が始まった。

毛利水軍は見たこともない信長水軍の巨大な鉄甲船に驚きながらも信長水軍を囲んで南下して「焙烙・火矢」を投げ込んだ。
しかし、厚い鉄板で覆われた鉄甲船に「焙烙・火矢」は通用しなかった。

九鬼嘉隆は敵を引き付け、大将が乗っていると思われる船に大砲・大鉄砲を打ち込んで集中攻撃するという戦術を取り、相手を打ち崩した。
この攻撃に恐れをなした毛利連合水軍はそれ以上近づくことが出来ず、数百隻の船が退却し、正午頃には海戦が終了してしまった。

その後

この戦いに勝利した織田方は大坂湾の制海権を握り、これ以降毛利からの石山本願寺への兵糧や武器・弾薬の搬入は出来なくなった。

織田軍は本願寺に対して戦略的にも圧倒し、2年後に顕如は信長に降伏。石山本願寺は明け渡された。

信長の鉄甲船

大坂本願寺復元模型(境内部分) 大阪歴史博物館蔵 wiki c ブレイズマン

引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けて完全に焼き尽くされたという。(一説には松明の火が風で燃え移った。他の説では退去を快く思っていなかった顕如の嫡子・教如方が火をつけたとも

ほぼ10年に渡る信長と石山本願寺との戦いに、ついに終止符が打たれた。

この後、信長の重臣・佐久間信盛は、石山本願寺を包囲するだけで積極的に戦を仕掛けなかったことを理由に折檻状を突きつけられて、織田家から追放された。

おわりに

九鬼嘉隆の建造した6隻の鉄甲船は「第二次木津川口の戦い」以後、どうなったかは不明である。

本能寺の変後に大坂湾に投錨したまま放棄されて朽ちていったという話や、解体されて数隻の小早(こはや・小型の軍船)に造り直されたという話が伝わっている。

また、天正12年(1584年)6月、九鬼嘉隆が海戦に敗れ大船を捨てて小舟に逃れた際に、沈没したという説もある。

275年後にペリーが黒船で日本に来航するが、最先端の蒸気船ではあったものの実際は全木製であった。

この時代に鉄甲船を作ってしまった信長の発想はやはり天才的である。

 

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