幕末明治

江戸幕府最後の老中「板倉勝静」と天空の城「備中松山城」

時代に揺れる備中松山藩

江戸幕府最後の老中「板倉勝静」と天空の城「備中松山城」

「幕末名家寫眞集1」 板倉周防守

幕末の備中松山藩主の板倉勝静(いたくら かつきよ)をご存じでしょうか。

備中松山藩は、現在の岡山県高梁市にあった藩で、今でも江戸時代に作られた山城が残っています。11月の雲海が出るシーズンには、雲海の上に浮かぶ城を見ようと多くの観光客が訪れています。

板倉勝静は、幕末の備中松山藩主で、江戸幕府の老中として幕府の舵取りをしたことで知られる人物です。今から約150年前、勝静が幕府の要職を勤めていたことで、備中松山藩は、幕末の動乱という大きな歴史の渦に飲み込まれてしまいます。

勝静は、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の玄孫だった

板倉勝静は、文政6年(1823)、陸奥白河藩主(後、伊勢桑名藩主)・松平定永の8男に生まれました。勝静の父の松平定永は、第11代将軍 徳川家斉の時、老中として「寛政の改革」を行った松平定信の長男です。

江戸幕府最後の老中「板倉勝静」と天空の城「備中松山城」

※徳川吉宗

この定信という人物は、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たることから、勝静は、8代将軍吉宗の玄孫ということになります。

天保13年(1842)、勝静が20歳の時に、備中松山藩主・板倉勝職の養嗣子となります。そして嘉永2年(1849)、27歳の時に家督を継ぎました。

この時、備中松山藩の表向きの石高は5万石でしたが、実収入は2万石に届かず、企業で例えるなら倒産寸前の状態でした。そこで、勝静は、備中松山藩の藩校有終館の学頭で農家出身の陽明学者山田方谷(やまだほうこく)を抜擢し、方谷に全権を与え、藩政改革を行うように指示します。

江戸幕府最後の老中「板倉勝静」と天空の城「備中松山城」

※山田方谷像

方谷は、藩の負債をなくしただけでなく殖産興業で余財を創り出し、軍政改革にも着手しました。

この藩政改革が評価され、勝静は安政4年(1857)、35歳の時に幕府寺社奉行に任ぜられます。

しかし安政6年(1859)、勝静は、大老 井伊直弼安政の大獄における容赦のない処断に反対したことで、井伊の怒りを買って寺社奉行を罷免されます。

勝静は、徳川家を見捨てられなかった

文久元年(1861)、板倉勝静は、桜田門外の変で井伊直弼が討たれた直後に、再び寺社奉行に復帰します。さらに翌年、幕府老中に任じられ、幕政の中枢を担うことになります。

文久2年(1862)と翌3年には14代将軍徳川家茂の供をして上洛。

元治元年(1864)に、生麦事件の賠償問題、孝明天皇から受けた攘夷命令が不可能であったなどの問題から、一時は老中職を罷免されます。しかし、慶応元年(1865年)に老中として再任され、翌年には、老中首座になります。

その後、徳川家茂が没し、15代将軍に慶喜が就任すると、勝静は慶喜から厚い信任を寄せられるようになり、老中首座兼会計総裁を任じられ幕政改革に取り組みます。

この頃、備中松山藩の山田方谷は、江戸幕府の崩壊は避けられないことを予見し、勝静に対し国へ戻り領民を重んじるよう進言します。しかし勝静は、追い詰められ苦しい立場である幕府を見捨てることが出来ず、江戸で政治を続けました。

徳川慶喜「天皇に政権を返す」と宣言

江戸時代末期の慶応3年(1867年)10月14日に、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が、朝廷(明治天皇)に対して政権の返上を上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許した「大政奉還」が起こります。これによって鎌倉幕府以来約700年続いてきた武家政治は終了となりました。

慶応4年1月3日、慶喜を擁した旧幕府軍と薩摩藩を中心とした明治新政府の両軍が京都に向かって兵をあげました。そして鳥羽伏見の戦いが勃発します。戦端が開かれたのは鳥羽街道で、旧幕府軍の先鋒が薩摩軍に遭遇し、それでも強引に道を進もうとし、薩摩軍から一斉掃射を浴びます

1月4日、新政府軍は、あらかじめ用意していた「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げます。これは朝廷の軍であることを表す旗で、天皇が認めた証になり、敵対する者は賊軍とみなされます。これにより、備中松山藩は、旧幕府軍の一員として参加していることから朝敵となりました。

1月6日、周囲から出陣を求められた慶喜は、将兵たちに「さらば、これより打ち立つべし。皆々、その用意すべし」と答えますが、深夜、板倉勝静、京都守護職 松平容保(会津藩主)、京都所司代 松平定敬(伊勢桑名藩主)とともに大阪城を脱出し、船で江戸に逃亡します。

大将を失った旧幕府軍は大敗し、鳥羽伏見の戦いを終えました。

勝静は鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府軍の参謀として戊辰戦争に参加、最後の戦いである函館(五稜郭)まで転戦していきます。

備中松山城 無血開城

松山城本丸(平成の復元後)2012年撮影 wiki(c)Reggaeman

1月9日、備中松山藩では、鳥羽伏見の戦いの知らせを受け、対応を評議します。

藩主である勝静不在の評議では、恭順、交戦、状況観察の3つの意見に分かれましたが、最終的には「無謀な戦いは避けて板倉家の存続を図る」恭順を決意し、藩主の勝静を強制的に隠居させたことにして、先代の従弟である勝弼を養子として新藩主とし、勤王派に鞍替えして新政府に投降。

18日に松山城を無血開城しました。

勝静は旧幕府軍とともに函館まで行っていましたが、藩主である勝静がまだ旧幕府と行動を共にしていることが新政府軍に知られてしまい、松山藩の立場がまた危うくなります。

この火急の事態に山田方谷はすぐさま松山藩士を函館に派遣して、勝静を江戸に強引に連れ戻し、新政府に謝罪し投降するように説得します。勝静は説得を受け自訴し、終身禁固刑に処せられました。

備中松山藩は、明治政府に対し恭順の意を示したことで城下の戦禍を免れました。板倉家は存続が認められ、明治2年には高梁藩(たかはしはん)として再興を実現することもできました。もし、会津藩と同様に交戦していれば、城下は現在の姿を留めていない可能性が高かったと考えられます。

この時が高梁藩の歴史的なターニングポイントであったと言っても過言ではありません。

幕末の藩主の中で名君と言えば「板倉勝静」

隠居した板倉勝静は後に新政府から赦免され、上野東照宮の祀官に就任し、第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の設立に携わるなど活動を続けます。

激動を生きた勝静は、明治22年(1889年)、享年66才、この世を去りました。

勝静は、幕府の要職でありながら幕府を支えきれなかったという印象が残りますが、幕府に対する義を貫き通した人物でもあり、備中松山藩の財政改革に成功した名君です。今でも、地元の人に尊敬されから愛され続けています。

「天空の城」備中松山城

江戸幕府最後の老中「板倉勝静」と天空の城「備中松山城」

きゅーまるさんによる写真ACからの写真

江戸幕府最後の老中「板倉勝静」と天空の城「備中松山城」

きゅーまるさんによる写真ACからの写真

備中松山城は、雲海に浮かぶ「天空の城」としても有名です。

雲海が出る時期は9月下旬~4月上旬の明け方から午前8時頃までです。とくに11月上旬〜12月上旬が濃い朝霧でもっともオススメ。

詳しくは高梁市観光ガイドにて

http://takahasikanko.or.jp/modules/spot/index.php?content_id=58

幻想的な写真が撮れるので、興味のある方は是非足を運んでみてください。

 

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草の実堂編集部 新井弘樹

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