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日本ダービーの歴史を調べてみた【キーストンの悲劇】

日本ダービーの歴史を調べてみた【キーストンの悲劇】

2019/5/26 東京優駿 ロジャーバローズ wiki(c)Nadaraikon 

東京優駿(日本ダービー)(3歳オープン 牡・牝 国際・指定 定量 2400m芝・左)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で毎年5月末に施行する重賞競走(GⅠ)である。

日本で競馬に携わる全ての関係者の目標であり、ダービーに勝つことは最高の栄誉なのだ。ダービーが終わると来年のダービーを目指す2歳馬たちの新馬戦が始まる。

三冠皐月賞・日本ダービー・菊花賞)の第2冠めのレースで、「最も幸運な馬が勝つ」といわれる。

菊花賞より400m長い距離を走るスタミナに加えて、東京競馬場の長い直線コースに入ってからのスピードと競り合いでの強さも必要である。

日本ダービー」は1950年から東京優駿の副称として付けられた。
だが1932年(昭和7年)の第1回から東京日日新聞(毎日新聞の前身)や読売新聞は「日本ダービー」の呼称を用いている。

この日本ダービーについて創設からの歴史をひもといてみる。
なお2001年(平成13年)から競走馬の年齢表記が数え年から満年齢に変更された。この記事ではレース名以外は現在の表記で記す。

東京優駿(日本ダービー)の歴史

日本ダービーの歴史を調べてみた【キーストンの悲劇】

※目黒競馬場

日本ダービーはイギリスのダービーに範をとり、1932年(昭和7年)に「東京優駿大競走」として目黒競馬場の芝2400mに創設された。

目黒競馬場を本拠地としていた東京競馬倶楽部が、日本の近代競馬の競走体系の基幹となり競走馬の資質向上を図るための3歳の大レースの設立を決め、施行されたものである。

設立当初の賞金は国内最高額だった。現在はジャパンカップ、有馬記念に次ぐ。

イギリスのダービーは1780年に、第12代ダービー伯爵 エドワード・スミス・スタンリーらによりエプソム競馬場において、3歳牡馬牝馬の混合競走として創設された。

第1回日本ダービーの優勝馬はワカタカ(牡)である。

日本ダービーの歴史を調べてみた【キーストンの悲劇】

1932年の第1回東京優駿大競走 (右・ワカタカ 左・オオツカヤマ)

全部で19頭が出走、ワカタカは見事に1番人気に応えて勝利した。
ワカタカはこの後、東京競馬倶楽部主催の第52回帝室御賞典と農林省賞典競走(どちらも天皇賞秋の前身)でも優勝している。

1934年(昭和9年)第3回から舞台が目黒競馬場から府中に建設された東京競馬場に移った。目黒競馬場が手狭になったためである。

太平洋戦争中の1944年(昭和19年)第13回は馬券を販売しない能力検定競走として施行され、1945年(昭和21年)と1946年(昭和22年)は開催中止になった。

戦後、1947年(昭和22年)第14回から再開し、1948年(昭和23年)第15回は名称を「優駿競走」に変更。
1950年(昭和25年)第17回から「東京優駿競走」に再変更、「日本ダービー」の呼び名も付された。

1964年(昭和39年)第31回に「東京優駿(日本ダービー)」に変更され現在に至る。

1984年(昭和59年)(第51回)グレード制導入、GⅠに格付けされた。
1995年(平成7年)(第62回)地方競馬所属馬の出走が可能になった。

2001年(平成13年)(第68回)外国産馬も出走可能になる。

2007年(平成19年)(第67回)日本はパートⅠ国に昇格したが、日本ダービーは外国調教馬の出走を認めていなかったため、格付表記がJpnⅠに変更された。

2010年(平成22年)(第77回)国際競走に指定され、外国調教馬は外国産馬と合わせて最大9頭まで出走可能となった。また格付表記がGⅠ(国際格付)に変更された。

日本ダービーの回顧

競馬には血統のロマンがある。特に日本ダービーには全ての馬にドラマがある。
ここでは4頭のストーリーをご紹介する。

《超特急 キーストン》

キーストンは1965年(昭和40年)第32回の優勝馬。短距離に適性がありダービーで勝つのは無理と思われていたが、雨の中の不良馬場が味方したかスタートから先頭を走り続け、最後に後続の1番人気ダイコーターを突き放して勝利。山本正司騎手の唯一の八大競走勝利となった。

ダービー以降は脚部不安による療養が続き、脚の負担を考えて出走した1967年(昭和42年)第15回阪神大賞典で悲劇が起こる。ゴール手前で転倒。左第一指関節完全脱臼となり残る3本の脚で歩いて、頭を強打して意識を失っていた山本騎手のもとに戻った。

顔を近づけて山本騎手を起こし、無事を確認すると横たわった。

山本騎手の意識が本格的に戻ったのは、キーストンの安楽死処置の後だった。

ダービーに勝った牝馬3頭のストーリー

日本ダービーの歴史を調べてみた【キーストンの悲劇】

※ヒサトモ

初めてダービー馬になった牝馬は1937年(昭和12年)第6回のヒサトモである。

ヒサトモは翌年の第3回帝室御賞典(現 天皇賞秋)でも牝馬初の優勝馬になった。人間の都合に翻弄され「悲劇の名牝」と呼ばれたが、細く繋がった血統から1991年(平成3年)第58回優勝馬トウカイテイオーが出ている。

※クリフジ

牝馬2頭目のダービー馬は1943年(昭和18年)第12回のクリフジである。

生涯通算成績11戦11勝で「最強馬」として彼女の名前を挙げる人も多いという。騎乗したのは見習い騎手だった前田長吉で、20歳3ヶ月でのダービージョッキー最年少記録は2019年(令和元年)現在まだ破られていない。

ウオッカ(第74回東京優駿、東京競馬場)wiki(c)Goki

牝馬3頭目のダービー馬は64年後の2007年(平成19年)第74回のウオッカである。2002年(平成14年)第69回優勝馬タニノギムレットの初年度産駒で、ダービー初の父娘制覇である。

ダービー馬はダービー馬から生まれる」という格言がある。

ダービーの親子制覇は1933年(昭和8年)第2回のカブトヤマと1947年(昭和22年)第14回マツミドリが初めて達成した。近年は父内国産馬が活躍しているので、13組も親子制覇をしている(2019年(令和元年)現在)。

ウオッカに騎乗した四位洋文騎手は翌年の第75回のディープスカイでも優勝した。

ダービーの連覇は武 豊騎手が1998年(平成10年)第65回スペシャルウィーク・1999年(平成11年)第66回アドマイヤベガで達成しているので史上2人目だが、牡馬と牝馬でダービー勝利したのは四位騎手だけである(2019年(令和元年)現在)。

 

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