どうする家康

家康に忌み嫌われた異端児! 六男・松平忠輝 「文武に優れていたが素行が悪すぎた」前編

松平忠輝とは

六男・松平忠輝

画像:松平忠輝の肖像 上越市総合博物館所蔵 publicdomain

松平忠輝(まつだいらただてる)は、徳川家康の六男でありながら、父・家康から生まれてすぐに「捨てよ」と言われ、「鬼っ子」と呼ばれて嫌われたという。

生母は家康の側室・茶阿局(ちゃあのつぼね)である。

家康に「捨て子にしろ」と言われ、捨てられた忠輝は、捨て子の風習(捨てられた子は丈夫に育つと言われた安育祈願)により本多正信に拾われ、すぐに下野国栃木皆川城主・皆川広照に預けられて養育された。

家康に嫌われた理由としては

・母の身分が低かった
・生まれた時に色がとても黒かった
・実は双子だった
・死んだ長兄・信康とそっくりだった
・生まれた時に家康は秀吉の妹・朝日姫が継室となっていたため、子どもができかった秀吉と朝日姫に遠慮をした

などの説があるが、本当の理由は未だ謎である。

家康から嫌われた忠輝は勘当され、家康の死の際も会うことが許されなかった。

また、兄・秀忠からも嫌われ、家康が亡くなった3か月後に改易となり配流されたが、何と5代将軍・綱吉の時代まで生きたという。(※享年92

今回は、家康に忌み嫌われた異端児、家康の六男・松平忠輝の生涯について、前編と後編にわたって掘り下げていきたい。

出自

松平忠輝は、天正20年(1592年)家康と側室・茶阿局との間に六男として江戸城で生まれたとされているが、実は生年については天正14年・天正17年・天正18年と諸説ある。

また、浜松城で生まれたという説もある。(※数々の文献によって異なる)

家康の五男・武田信吉が生まれた天正11年から天正20年の間に、公式には家康の子が出生した史料は確認できない。

これは、天正14年から秀吉の妹・朝日姫が家康の継室となっており、天正18年に朝日姫が亡くなっていることから、家康が秀吉に気を使って生まれを天正20年とした可能性もある。

六男・松平忠輝

画像 : 朝日姫 豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画。public domain

そして忠輝は、同母弟の七男・松千代と、実は双子であったとも言われている。

過去に次男・結城秀康も双子であったために「畜生腹」と呼ばれて遠ざけられた経緯があり、秀康同様に疎まれたことが推測できる。(※諸説あり)

生年(天正20年)が辰年であったために、幼名は「辰千代(たつちよ)」と名付けられたが、上記の理由で家康は辰千代の誕生を喜ばなかった。
捨て子扱いされた辰千代は重臣・本多正信に拾われ、すぐに下野国栃木皆川城主・皆川広照のもとに預けられ養育された。

同母弟の松千代は、生後間もなく長沢松平家を相続して1万石の領主となっており、まるで扱いが違っている。

その後、辰千代が父・家康と会ったのは慶長3年(1598年)7歳の時である。この時、家康は辰千代の顔を見て「死んだ長男・信康とそっくりで恐ろしい」と言ったという逸話があり、家康は辰千代を「鬼っ子」と呼んだという。

同年に辰千代は、伊達政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)と婚約する。慶長4年(1599年)弟・松千代が6歳で早世したため、弟の名跡を継ぐ形で長沢松平家の家督を相続して、武蔵国深谷1万石を与えられた。

慶長7年(1602年)12月に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して「上総介忠輝」と名乗る。
ここからは「忠輝、または松平忠輝」と記させていただく。

それからわずか40日後の慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島藩12万石に加増移封となり、松代城主となる。
慶長10年(1605年)4月に上洛して参内し、従四位下・右近衛権少将に任じられる。

慶長11年(1606年)11月に婚約していた伊達政宗の長女・五郎八姫を正室として迎えた。
2人の間には子どもができなかったが、仲はとても良かったという。

六男・松平忠輝

画像 : 大久保長安像

忠輝は家康の家臣・大久保長安に公私共に助けられており、長安は忠輝の附家老に任命されている。

さらに茶阿局の娘(忠輝の異父姉)を妻にしていた花井吉成も、家老として配属された。

素行が悪かった忠輝

忠輝は父・家康の剣術指南役であった新陰流四天王の1人・奥山公重(奥山休賀斎)から幼い頃より剣術を習い、柳生宗矩ら柳生新陰流の剣士たちよりも強かったという。

六男・松平忠輝

運動神経が抜群で、奥山から様々な武術や兵法指南を体得した。しかも幼少期から楽器の名手でもあったという。

また、正室の五郎八姫がキリシタンだった為、キリスト教を通じて西洋医学や外国語を学び、ラテン語・イタリア語・ポルトガル語・英語をマスターしていたとも言われている。

忠輝は、文武両道に極めて優れた人物だったのだ。

川中島藩12万石の藩主となった忠輝だったが、異母弟の徳川義直徳川頼宣は25万石を与えられていた。忠輝は父・家康のあからさまな贔屓に次第に人格が歪んだのか、成人する頃には家臣も手を焼くほどの粗暴な性格となり、これが後に災いを招くことになる。

忠輝を諌めた家臣たち

忠輝には「上総介殿の三臣」と称された3人の代表的な家臣がいた。

六男・松平忠輝

画像 : 皆川広照 publicdomain

筆頭格は、忠輝の養育係を務めた皆川広照(みながわひろてる)である。
彼は北関東の有力国人領主でありながら、相模の北条氏・織田信長・徳川家康とうまく関係を結び、3万5,000石の大名にまで上り詰め、幕府の附家老を務めた人物だ。

2人目は、長沢松平家の庶流の松平清直である。彼は忠輝が嫡流を継いだことで主従関係になった。

3人目は、古くから長沢松平家に仕えていた山田重辰である。粗暴な性格であった忠輝を最も強く諫めた人物だった。

しかし、この三臣が諫めても忠輝の暴君振りは全く収まらなかった。
うるさく言うこの三臣を嫌がった忠輝は、従順な新参者を重用し、三臣との主従関係が悪化していったのである。

慶長14年(1609年)三臣はとうとう駿府に居た家康に、忠輝の素行の悪さを訴えた。
しかし忠輝もすぐに駿府に駆け付け、逆にこの3人が家中を牛耳っていると弁明した。

そして実母・茶阿局の取り成しもあって、家康は息子・忠輝の弁明を聞き入れてしまったのだ。
皆川広照は改易、松平清直は減封、最も忠輝を諫めた山田重辰は切腹となってしまったのである。

しかし改易・減封となった2人は後に放免され、松平清直は再び忠輝に仕え、5,000石を有したという。

後編では、ようやく家康に認められて大大名となるも、大坂夏の陣で大失態を犯してしまった忠輝について解説する。

関連記事 : 家康にも秀忠にも嫌われた六男・松平忠輝 「ようやく家康に認められるも大坂の陣で大失態」後編

 

アバター

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 浅井長政とは 〜「信長の妹・お市と結婚し、死後に将軍家光の祖父と…
  2. 【関ヶ原の戦い】徳川家康に仕えた老人”すり̶…
  3. 【秀吉死後の家康の身勝手な行動】 家康の天下取りへ向けての2年間…
  4. 本多忠勝と本多正信の関係性とは? 「最強武将と最強謀臣」【どうす…
  5. 武田家を再興させた家康の五男・武田信吉とは 「わずか21歳の若さ…
  6. 今川氏真の子孫は、徳川の旗本として存続していた 【どうする家康】…
  7. 一向一揆はなぜ強かったのか? 「家康や信長を苦しめた信者たち」
  8. 【小牧・長久手の激闘】徳川四天王の名は伊達じゃない!“鬼武蔵”森…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【古代中国】愛人と陰謀に溺れた皇后 ~300年の乱世を生んだ最凶の悪女とは

皇后の暴走前夜時は3世紀後半、中国は長きにわたる戦乱の時代を終えようとしていた。魏・蜀・…

中国のビックリする料理 【牛糞、ネズミの踊り食い、猿の脳みそ】

中国の食文化中国人は非常に「食」を大切にする。挨拶がわりに「吃飯了嗎?(ご飯食べ…

「ブギウギ」鈴子の同期、白川・桜庭のモデルは誰? 梅丸歌劇団の注目キャラクターを史実で解説

朝ドラ「ブギウギ」では、芸名も決まり初舞台を踏んだ鈴子たち。切磋琢磨して明日のスターを夢見る…

江戸時代の変わった殿様たち 「温水プールを作った、ブリ好きが原因で自害、7度も強制引っ越し」

今回も前編に引き続き、江戸時代の殿様の暮らしと、変わった殿様たちについて解説する。殿様の1日…

中国が歴史上行った残酷な処刑、拷問方法

中国の処刑や拷問は、他国に類を見ないほどの残酷な行為を行ってきた歴史がある。その背景には、他…

アーカイブ

PAGE TOP