どうする家康

武田家を再興させた家康の五男・武田信吉とは 「わずか21歳の若さで亡くなる」

武田信吉とは

画像 : 甲越勇將傳武田家廾四將:穴山伊豆守信良(歌川国芳作) public domain

「どうする家康」の中で、田辺誠一氏が演じる穴山梅雪は、武田家を裏切って徳川家康に仕えることになった。

そして梅雪は、武田家の中でも評判の美人、秋山虎康の娘である於都摩の方(おつまのかた・下山殿)を、自分の養女として家康に献上した。

武田信吉(たけだのぶよし)は、家康と側室になった於都摩の方(下山殿)との間に、天正11年(1583年)に生まれた家康の五男である。

武田信玄の親族衆である穴山梅雪は、御一門の筆頭格であり、武田宗家との婚姻関係により親族意識が非常に強かった。しかし、信玄の後継者となった勝頼が自分の娘を梅雪の嫡男・勝千代に嫁がせるという約束を反故にしたことに、彼は激怒し、家康に味方することを決めた。

しかし、本能寺の変後の伊賀越えで、梅雪は家康一行と別れて別のルートを通った。梅雪は落ち武者狩りで殺害されたか、自害したか、または一揆勢によって殺されたと言われている。

梅雪の嫡男である穴山勝千代は、武田信治として穴山家と武田家の当主となった。しかし、天正15年(1587年)に彼は死去し、家康の五男である万千代丸が武田信吉として名門甲斐武田家を継承することになった。しかし信吉もわずか21歳の若さでこの世を去ってしまったのだ。

今回は、武田家を再興させた家康の五男・武田信吉の生涯について解説する。

出自

武田信吉は、天正11年(1583年)9月3日、家康と側室・於都摩の方との間に家康の五男として浜松城で生まれた。

母・於都摩の方は、甲斐武田家の家臣であった秋山虎康の娘である。

秋山虎康は信玄・勝頼に仕えた武田家の家臣であったが、穴山梅雪と同じ武田家親族衆で梅雪との関係が深かった。

梅雪は前述した通り、勢力が衰えた勝頼を見限り、甲州征伐では家康に味方して与力となった、

画像 : 甲州征伐 勝頼於天目山遂討死図 public domain

この時に、梅雪は家康に武田一族の中から2人の美女を献上した。

その中の1人が、於都摩の方であった。
家康の側室となった於都摩の方は、下山城主・穴山梅雪の養女として家康のもとに行ったことから「下山殿」と呼ばれるようになった。

そして2人の間に、家康の五男となる福松丸が生まれる。
幼名は「万千代丸」だが、ここでは「武田信吉または信吉」と主に記させていただく。
(※松平信吉と呼ばれた時代もあったがその時期は短く、藤井松平家にも同名の松平信吉がいて区別するために、一般的には「武田信吉」とされている。)

その後、前述した通り、穴山梅雪は本能寺の変後の伊賀越えの途中で殺害されてしまったのだ(※自害説もある)。

そこで穴山家・武田家の当主は、梅雪とその正室・見性院(信玄の娘で次女)の嫡男・勝千代が「武田信治」と名を改めて継承した。しかし信治は天正15年(1587年)、わずか16歳で天然痘にかかり病死してしまった。

そこで家康は、名門甲斐武田家の名跡を存続させるために、五男・万千代丸に跡を継がせることにした。

見性院が後見人となり、甲斐河内領・江尻領・駿河山西・河東須津を支配させ、万千代丸は元服して「武田信吉」と名を改めて武田家を継承したのである。

小金城主と結婚

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐後、信吉は家康の関東移封に従って、下総国小金城(現在の千葉県松戸市)3万石の領主となった。

信吉は、秀吉の一門衆で正室・北政所の甥である木下勝俊の娘(長女)・天祥院を娶ったために、家康が秀吉に配慮して加増転封したという。
だが小金城は家康の直轄地であったことから、信吉は江戸に滞在した。

翌天正19年(1591年)10月6日に実母・於都摩の方(下山殿)が24歳または28歳の若さで死去すると、見性院が信吉の養母となった。

文禄2年(1593年)信吉は、下総国佐倉城(現在の千葉県佐倉市)10万石の領主に加増転封となった。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、信吉は出陣せずに江戸城西の丸の留守居役を努めた。

武田家再興

画像 : 佐竹義宣 publicdomain

常陸国水戸城主である佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、関ヶ原の戦いにおいて家中の意見がまとまらず、東軍と西軍のどちらにつくべきか迷っていた。

佐竹氏は、豊臣政権下では水戸54万5,800石と第8位の大名で、一門を合わせると80万石を超え、伊達家や宇喜多家を上回っていた。

義宣は、上杉軍による佐竹領侵攻を危惧し上杉に接近したが、東軍優位と見るや上杉と距離を置くという曖昧な姿勢だった。

そして関ヶ原の戦い後、曖昧な態度を取ったことを家康に謝罪せずにいた。

慶長7年(1602年)、義宣は関ヶ原の戦いから2年後にようやく上洛して家康に拝謁し謝罪したのだが、上杉景勝と家康追撃の密約を結んでいたことが発覚し、出羽国久保田藩(秋田藩)20万石に大減移封となった。

これは戦いに参加しなかったことで無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を、江戸から遠ざけるための大減移封だと言われている。

そして空いた水戸城に入ったのが信吉で、水戸藩25万石の藩主となったのである。

信吉の移封に従い、旧穴山家臣団を中心に武田家遺臣も付き従い、信吉は名門甲斐武田家を再興したのである。

最期とその後

しかし、翌慶長8年(1603年)9月11日、元々病弱であった信吉は、湿瘡(しっそう)というヒゼンダニによるかゆみが長く続く病になってしまい、わずか21歳の若さでその生涯を閉じた。

正室・天祥院との間に子ができなかったために、武田家は再び断絶することになってしまったのである。

水戸藩にはわずか2歳の異母弟の家康の十男・頼将(後の徳川頼宣)が水戸藩主として就任したが、慶長18年(1613年)、頼宣が駿府50万石に転封となり、水戸藩には家康の十一男・徳川頼房が入り、水戸徳川家の祖となった。

画像 : 徳川頼房の肖像 public domain

信吉の家臣たちは、水戸徳川家(頼房)に仕えることになったという。

おわりに

武田信吉の死で武田家は断絶したが、武田信玄の次男・海野信親の子・武田信道が、何と天目山の戦い後の残党狩りで生き残っていたことが分かった。

その後、武田信道は武田家遺臣で徳川家家臣となった大久保長安に匿われた。

しかし、慶長18年(1613年)大久保長安事件が起き、武田信道は連帯責任として伊豆に流されてしまった。だが信道の子・信正は、寛文3年(1663年)に江戸に帰還を許された。

そして信正の子・信興が、元禄14年(1701年)5代将軍・綱吉に御目見したことを機に、武田家は高家に列せられることになった。

こうして信玄の血を引く甲斐武田家は、高家旗本として再興を果たしたのである。

 

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日本史が得意です。

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 5月 24日 7:22pm

    穴山梅雪からの武田信吉、さすが草の実堂さん、来週からの「どうする家康」が少しネタバレですが、あえてどういう風にドラマ化されるのか凄く楽しみです。

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