どうする家康

武田勝頼の滅亡は外交にあり。長篠の大敗から7年間の迷走【どうする家康】

長篠の合戦(天正3・1575年5月21日)で大敗を喫し、多くの将兵を喪ってしまった武田勝頼(演:眞栄田郷敦)。

亡き父・武田信玄(演:阿部寛)が築き上げた武威を大きく損ねたものの、その闘志はいまだ衰えることなく、天正10年(1582年)3月に滅亡するまで7年間にわたって抵抗を続けました。

長篠の合戦で大敗を喫した勝頼。しかしまだこの時点では復活の可能性も十分に残されていた。「長篠合戦図屏風」より

時には信玄時代を超える領土拡大を実現した勝頼。その武力こそ信玄に劣らぬものでありながら滅亡してしまった一因に、外交政策の失敗が挙げられます。

今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀』より、勝頼の外交政策をたどっていきましょう。

永く武田が旗下に属すべし……上杉家の後継者争い

……越後の上杉謙信此月十三日四十九歳にて世をさりぬ。これより先に入道は小田原の北條氏康の子の三郎景虎と。姪(甥)の喜平次景勝と二人を養ひて子となし置つるが。入道うせて後この二人国をあらそふ事たえず。景勝心ときおのこなれば。勝頼が寵臣長坂跡部といへる者をかたらひ。こがね二千両づゝを贈り。勝頼が妹をむかへてその聟となり。永く武田が旗下に属すべし。先は常座の謝儀として上野一国にこがね一万両そへて進らすべし。いかにも加勢し給はるべしと申送れば。利にふける勝頼主従速に応じ。終に景虎を伐亡して景勝父謙信の家をつぐ。……

※『東照宮御實紀』巻三 天正六年-同七年「謙信卒」

事の発端は天正6年(1578年)3月13日、「越後の龍」と恐れられた信玄の宿敵・上杉謙信(うえすぎ けんしん)が世を去ったことにあります。

謙信には実子がなく、甥の上杉景勝(かげかつ。喜平次)と養子の上杉景虎(かげとら。三郎)が後継者争いを始めました。

ここに勝頼が介入するのですが、もしあなたならどちらに味方するでしょうか。

【上杉景勝】上杉謙信の血族、特に義理もなし
【上杉景虎】武田の盟友・北条氏政(ほうじょう うじまさ)の弟

道義的に考えれば、助けるべきは景虎一択でしょう。しかし勝頼は考えます。

「ここで三郎殿が上杉の家督を継げば、武田は東側を完全に抑え込まれてしまう」

勝頼と周辺勢力概略図(自作イメージ)。上杉家を景虎(北条派)が継いだら、東側が完全にふさがれる形に。

そんな勝頼の迷いを衝くように、景勝からこんな申し出があったのです。

「もし此度お味方下さるならば、我が上杉家は永く御家の旗下に従い申す」

これを聞いて欣喜雀躍せぬはずがありません。何しろ父・信玄があれほど死闘を繰り広げたにも関わらず屈することのなかった上杉が、自分から臣従すると言うのです。

父でさえ下せなかった上杉を旗下に従える快挙を成し遂げれば、日ごろ批判的な老臣どもも見直さざるを得まい……勝頼はすっかりその気になりました。

加えて景勝は、上野国(群馬県)と黄金一万両も献上するとのこと。勝頼の心は完全に景勝支持で固まります。

普通、こういう時は周囲が「話が美味すぎます。用心召され」などと諫めるもの。しかし周到な景勝は側近の跡部勝資(あとべ かつすけ)・長坂釣閑斎(ながさか ちょうかんさい。光堅)にもそれぞれ黄金二千両ずつの賄賂を贈り、しっかり買収していたのです。

「「誠によきお考えと存じます!」」

かくして勝頼は景勝を助け、上杉の家督争いを勝利に導いたのでした。

いかにしてもこの怨を報ぜんと……武田包囲網の結成

……勝頼もとより北條氏政が妹聟なり。さるゆかりをもおもはで財貨に心まよひ。氏政が弟の三郎を亡す加勢せしを氏政甚うらみ憤り。いかにしてもこの怨を報ぜんと思ひ。やがて   当家にちなみ進らせ。織田家へもよしみをむすぶ。……

※『東照宮御實紀』巻三 天正六年-同七年「氏政絶武田氏通徳川氏」

が、これで済むはずがありません。

「おのれ武田め、永年のよしみをカネで売り渡すとは言語道断!」

そもそも勝頼は氏政の妹聟になっており、義兄弟の景虎を見捨てたことを、氏政が怒らぬはずがありません。

かくなる上は何としてでも……怨み骨髄に徹した氏政は武田を包囲するべく西の織田信長(おだ のぶなが)や徳川家康(とくがわ いえやす)と誼を通じることになります。

以来、勝頼は西から東から代わる代わる突かれて対応に追われ、次第に衰退・滅亡してしまったのでした。

勝頼の最期。歌川国綱『天目山勝頼討死図』より。

頼み?の景勝も一応は援軍を出してくれたのですが、いかんせん遠すぎて間に合わなかったと言います。また、常陸国の佐竹義重(さたけ よししげ)や房総半島の里見義頼(さとみ よしより)らとも連携を図るも、これまた北条の厚い壁に阻まれて効果は薄かったようです。

目先の欲得に目がくらんで信義を失い、すべてが後手後手に回っていった勝頼の滅亡は、ある意味で必然だったのかも知れません。

勝頼が北条を信頼して信義をまっとうし、互いに背中を預け合える関係を構築できていれば、織田・徳川との対決においてまた違った未来が見えたものと思われます。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、偉大な父を持ったがゆえの葛藤や家臣団との確執、そして外交決断を誤るまでの過程が見どころとなるでしょう。

眞栄田郷敦の熱演に乞うご期待です!

※参考文献:

  • 瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究 政治力の差が明暗を分けた』PHP文庫、2014年6月
  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
角田晶生(つのだ あきお)

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