1568年(永禄11年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たしました。
この働きにより、義昭は室町幕府第15代将軍に就任。
足利義輝が三好三人衆によって討たれて以来、途絶えかけていた幕府は再興したのです。
しかし実は、信長がその2年前にすでに上洛を計画していたことはあまり知られていません。
そして、この「幻の上洛計画」に深く関わっていたのが、小牧山城でした。
今回は、信長の天下布武構想の起点ともいえる小牧山城の真の役割について考察します。
小牧山城は「美濃攻めの砦」ではなかった

画像:織田信長築城当時の小牧山城推定想像図(一般財団法人こまき市民文化財団)
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第5話「嘘から出た実(まこと)」において、信長は居城を清須城から小牧山城へ移しました。
史実では、小牧山城への移転は1563年(永禄6年)とされ、1567年(永禄10年)まで居城として使われました。
1561年(永禄4年)5月、信長の宿敵ともいえる美濃の国主・斎藤義龍が没します。
信長は1563年に居城を小牧山に移すと、本格的に美濃侵攻を開始。
しかし、家督を継いだ斎藤龍興との戦いは一進一退を繰り返しました。
1565年(永禄8年)には、犬山城を拠点に斎藤氏と連携して抵抗する織田信清を降し、尾張全土をほぼ統一します。
そして1567年(永禄10年)8月、美濃三人衆(稲葉良通・安藤守就・氏家直元)の内応を機に稲葉山城を攻略し、居城を小牧山から同城へ移し、岐阜城と改称するのです。
このような推移から従来の定説では小牧山城は、美濃攻略のための前線基地であると考えられてきました。
しかし、この説に疑問を投げかける史料が2014年(平成26年)に公開されました。
それは熊本県立美術館・熊本大学・東京大学が発表した、足利将軍家側近の書状です。

画像:足利義昭家来書状(東大史料編纂所)
この書状は同年の展覧会「信長からの手紙」で公開され、大きな注目を集めました。
そこには信長が1566年(永禄9年)8月、義昭に供奉して上洛を試みていたことが記されていたのです。
しかしこの計画は、近江の六角義賢が義昭から離反したため、直前で頓挫します。
少し話を整理するために、この間を時系列でまとめてみました。
・1563年(永禄6年)初め…小牧山城に居城を移す。
・1566年(永禄9年)8月…足利義昭の共として上洛を計画するも実現せず。
・1567年(永禄10年)8月…稲葉山城を攻略、居城を小牧山から移転。
・1568年(永禄11年)9月…足利義昭を奉じて上洛を果たす。

画像 : 織田信長 public domain
つまり信長は、清須から小牧山に居城を移した3年後の1566年には、将軍候補の義昭を奉じて上洛しようとしていたのです。
この当時の信長はやっと尾張統一を果たしたばかりで、まだ国内事情は不安定でした。
しかも木曽川を挟んで美濃の斎藤龍興と激しい交戦状態にありました。
このような状況で上洛するのは、信長にとって危険な賭けとなります。
当時、信長は33歳。その戦い方も決して無理はせず、調略を重ねて勝ち目があると確信したうえで戦いを行っています。
それは徳川家康との同盟、武田信玄の子・勝頼に養女を嫁がせるなど、着々と足元を固めたうえで、美濃攻略を進めていることからも伺えます。
実は信長の上洛は初めてではありませんでした。
1559年(永禄2年)に上洛し、足利義輝に謁見しています。

画像 : 足利義輝 public domain
この時の信長は、まだ尾張半国を治めるにすぎない大名でした。それでも道中では、斎藤義龍の刺客に狙われたとされます。
それに比べれば桶狭間の戦いで今川義元を討ち、尾張の国主となった後の信長は、周囲の大名からはるかに強い警戒を向けられていたはずです。
そんな信長が、本領を固めきらないまま上洛という危険な賭けに出るとは考えにくいでしょう。
一方で信長は、活発な諜報活動によって、畿内で三好三人衆が動いていることや、義昭が上洛を強く望んでいることを把握していたとみられます。
美濃を攻略すれば、上洛への道は大きく開ける。しかし、その実現にはなお時間がかかる。
その間に、別の大名が義昭を奉じて主導権を握ることを、信長は警戒していたのではないでしょうか。

画像:小牧山城本丸。信長時代の石垣(小牧市観光協会)
その不安を一掃できるのが、防御に弱点がある平城の清須から、防御力の高い本格的な山城・小牧山への移転でした。
つまり、同城への移転は単なる美濃攻めではなく、上洛を見据えた戦略的布石だった可能性が高いのです。
小牧山城は安土城の原型だった

画像:小牧山城大手道と高石垣(小牧市観光協会)
小牧山城は、美濃攻めのための単なる前線基地ではなく、天下布武へ向けた信長の本拠地として築かれた城だった。その再評価は、小牧市教育委員会による発掘調査によって大きく進み、発掘成果を踏まえた整備も進められています。
また、小牧の城下町も直線道路や基幹排水路を備え、町家が計画的に配置された戦国期の先進的な町であったことがわかってきました。
さらに信長が1566年(永禄9年)の段階で、足利義昭に供奉して上洛しようとしていたことをうかがわせる書状の発見は、小牧山城の役割を考えるうえで大きな手がかりとなりました。
もっとも信長は、1567年(永禄10年)8月に稲葉山城を攻略して美濃を手中に収めると、本城を小牧山城から稲葉山城へ移します。
これによって小牧山城は本拠としての役割を終え、城下町も次第にその機能を失っていきました。

画像:小牧山城と城下町(小牧市観光協会)
信長が心血を注いで築いた城と城下町は、わずか4年でその役目を終えます。
小牧山城とその城下の構想は、1576年(天正4年)10月、安土城に受け継がれました。小牧山城は、信長が天下統一を見据えて築いた安土城のプロトタイプでもあったのです。
山麓から山腹へ一直線に延びる大手道、その両脇に配された重臣屋敷。城の中心部へ近づくと、大手道は屈折して防御性を高めます。
従来の城郭にあまり見られない石垣の多用も含め、こうした特徴は安土城へ受け継がれていきました。

画像:安土城図 public domain
小牧山城は信長の死後、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康の本陣となりました。
この時、家康によって大規模な改修が加えられ、その後も小牧山は家康ゆかりの城郭として、江戸時代を通じて尾張藩の保護を受け続けます。
信長の築いた城は、本拠としての役割を終えた後も、家康の陣城として再び歴史の表舞台に立ち、近世を通じて特別な場所として扱われていったのです。
※参考文献
小牧山城史跡情報館 『れきしるこまき』 一般財団法人こまき市民文化財団
千田嘉博著 『城郭考古学の冒険』 幻冬舎新書
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

























この記事へのコメントはありません。