どうする家康

敵には絶対渡さない!長篠合戦で山県昌景の首級を守り抜いた志村又左衛門貞盈【どうする家康】

馬防柵に行く手を阻まれ、その向こうから火縄銃の一斉射撃になすすべもなく倒される武田の騎馬軍団……戦国ファンなら誰もがご存じ「長篠の合戦(天正3・1575年)」。

徳川家康(とくがわ いえやす)と織田信長(おだ のぶなが)連合軍が武田勝頼(たけだ かつより)を撃破したこの一戦で、多くの名将が弾丸の餌食となりました。

そんな一人が山県昌景(やまがた まさかげ。三郎兵衛)。武田の精鋭・赤備(あかぞなえ)を率いて天下を震撼せしめた名将も、戦場の露と消えたのです。

戦闘の様子を描いた「長篠合戦図屏風」にもその姿が描かれていますが、胴体に首がついていません。

東京国立博物館蔵「長篠合戦図屏風」より。中央で落馬している赤い甲冑の武将が山県昌景。その首級はすでに持ち去られている。なお、山県主従にのみ色をつけている工夫が心にくい。

昌景の首級は家臣の志村又左(しむら またざ。志村又左衛門貞盈)が敵に奪わせまいと斬り落とし、甲州まで連れ帰ったのです。

敵の銃弾が雨あられと降りしきる中、自身の命を顧みず主君の名誉を守る姿は、まさに中心の鑑と言えます。果たして彼は何者だったのでしょうか。

『寛政重脩諸家譜』が伝える志村貞盈

●貞盈
又左衛門 若さ 又左衛門
武田信虎をよび信玄勝頼につかへ、鎗のものを支配す。天正十年勝頼没落ののち駿府に於て東照宮にまみえたてまつり、すなはち御麾下に属す。九月朔日武田家にて支配せしところの同心を預けられ、十二月十二日甲斐国高畑鹽野口瀬村等にをいて七十九貫文の舊地を安堵すべきの御朱印をたまふ。この月遠江国秋葉にをいて連署の起請文をたてまつる。十一年四月十八日浜松にめされ、甲斐国の諸務を沙汰すべきむね井伊直政をして仰出され、荻原甚之丞昌之等九人の輩に一紙の御證文をたまふ。十二年長久手合戦のときしたがひたてまつり、十八年関東にうつらせたまふののち、甲斐国は浅野長政が領地となるにより、貞盈等が本領の地を収められ、かりに月俸を賜ふ。このとき北條陸奥守氏輝すでに没落すといへどもなを残党ありて穏ならざるにより、貞盈等九人おほせによりて武蔵国多摩郡八王子におもむき不に備ふ。十九年九戸御陣には岩手澤までしたがひたてまつり、このとき同僚十人に定められ、所所に離散せし處士を同心に召加へられ、各五十人を支配す。慶長六年五月八日死す。法名宗本。多摩郡柴崎村の普濟寺に葬る。のち葬地とす。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千二百四十五 清和源氏(義光流)志村

【意訳】武田信虎(のぶとら)・武田晴信(はるのぶ。信玄)・武田勝頼の三代に仕え、槍の者を率いていた。天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると駿河国で東照宮(家康)に仕えるように。

自害する勝頼。月岡芳年『勝頼於天目山遂討死図』より

同年9月1日に武田旧臣を預けられ、12月12日に旧領79貫文(1貫文≒2石≒158石)を安堵された。同月に忠義を誓う起請文を連名で提出する。

明けて天正11年(1583年)4月18日、甲斐国について荻原甚之丞昌之(おぎわら じんのじょうまさゆき)らと9名で国境警備や政務を担当するよう命じられた(これが甲州九口之道筋奉行の由来)。

【甲州九口之道筋奉行】
※五十音順
石坂森通(いしざか もりみち)
荻原昌之
窪田忠知(くぼた ただとも)
窪田吉正(くぼた よしまさ)
河野通重(こうの みちしげ)
志村貞盈
中村安直(なかむら やすなお)
原胤従(はら たねより)
山本忠玄(やまもと ただすみ)

天正12年(1584年)には小牧・長久手の合戦で羽柴秀吉(はしば ひでよし)との対決に出陣し、忠功を励ます。天正18年(1590年)に家康が関東に移封されると、新たに甲斐国主となった浅野長政(あさの ながまさ)は貞盈の所領を召し上げる代わり、月給を与えるようになった。

当時、秀吉によって滅ぼされていた北条氏照(ほうじょう うじてる。氏輝)の残党が武蔵国で再起する気配が見られたため、武蔵国八王子で警戒任務に当たる(これが八王子千人同心の由来)。

天正19年(1591年)に陸奥国糠部郡(岩手県二戸市)で九戸政実(くのへ まさざね)が叛乱を起こすと、その鎮圧に従軍した。この戦功ゆえか、各所に離散していた武田浪人を召し抱えることを許され、50人を従える。

慶長6年(1601年)5月8日没。法名は宗本(そうほん)、墓は普濟寺(東京都立川市)に。

『甲陽軍鑑』が伝える山県昌景の最期

徳川家に仕えてからの記述が主なため、肝心の長篠合戦についてもう少し知りたいところ。ここはやはり、高坂昌信(春日虎綱)の『甲陽軍鑑』をひもときましょう。

山県隊の奮戦。「長篠合戦図屏風」より

……山縣三郎兵衛千五百にて柵の内へおひこむ、されども家康強敵のゆへ、又くひつき出る、山縣衆は味方左の方へ廻り敵の柵の木いはざる右の方へおし出し、うしろよりかゝるべきとはたらくを、家康衆みしり、大久保七郎右衛門てうのはの差物をさし、大久保二郎右衛門金のつりかゞみ(つりがね?)のさし物にて、兄弟と名乗て山縣三郎兵衛衆の、小菅五郎兵衛、廣瀬郷左衛門、三科傳右衛門此三人と詞をかわし、追入おひ出し九度のせり合あり、九度めに三科も小菅も手負引のく、其上山縣三郎兵衛くらの前輪のはずれを鉄砲にて後へ打ぬかれ則ち討死あるを山縣被官志村頸をあげて甲州へ帰る……

※『甲陽軍鑑』巻第十九 五十二品「長篠合戦事」

【意訳】山県昌景は精鋭1,500を率いて馬防柵を回り込もうとするが、徳川方も手強く押し合いとなる。

徳川方より現れた大久保七郎右衛門(おおくぼ しちろうゑもん。大久保忠世)は揚羽蝶の旗指物、その弟らしき大久保二郎右衛門(じろうゑもん。大久保忠佐)は釣鐘の旗指物をひるめかせながら迎え撃つ。

山県勢は小菅五郎兵衛(こすげ ごろべゑ)・廣瀬郷左衛門(ひろせ ごうざゑもん)・三科傳右衛門(みしな でんゑもん)といずれも豪傑。

互いにせり合うこと九度におよび、九度目にして三科と小菅は負傷して退却。山県昌景は銃撃により討死した。

その時、山縣に仕えていた志村が主君の首級を敵に奪われまいと、掻き切って甲州まで連れ帰ったのである。

終わりに

討死した主君・山県昌景の首級を持ち帰る家臣の志村又左。東京国立博物館蔵「長篠合戦図屏風」より

……果たして志村貞盈が命懸けで護り抜いた昌景の首級は、武田家の菩提寺・恵林寺に葬られました。一方、残された胴体は長篠古戦場に葬られたと伝わります。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では橋本さとしが熱演している山県昌景。劇中ではどんなアレンジ(まさか割愛?)がされるのか、今から楽しみです!

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

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