朝ドラ「ばけばけ」で語られたヘブンの過去。
愛した女性を幸せにできなかった痛みから、彼は人との深い関わりを避け、どこにも根を下ろさず「通りすがりの人」として生きる道を選びました。
同じように、ラフカディオ・ハーンも離婚を経験した後、各地を渡り歩く生活を送っています。
日本へやって来た当初、長く滞在するつもりはなかったというハーン。
そんな彼をこの地に引き留めたのは、妻セツの存在、そして家族の温もりでした。
今回は、ハーンの最初の結婚と挫折、日本に居場所を見つけた理由について、ひも解いていきます。
ホームレスから新聞記者へ 〜シンシナティ時代

画像 : 16歳頃のハーン(1866年)public domain
1869年、ハーンはイギリスからアメリカ中西部の都市、オハイオ州シンシナティへ渡りました。
祖母が破産したため、遠い親戚を頼ってはるばるアメリカまで来たものの、厄介者扱いされ援助は受けられません。
19歳のハーンは、たった一人世間に放り出され、自活の道を探り始めます。
会計係や電報配達、住み込みの下働きなど、職を転々としながら、がむしゃらに働きました。
固い床でも屋根の下で寝られるのはまだ幸せな方で、道路に寝ることもあるほど、まるでホームレスのような生活だったといいます。
そんな彼を救ったのが、印刷屋のヘンリー・ワトキンでした。
ワトキンは、印刷所の片隅に寝床を与え、植字工の仕事と食事を与えてくれました。
無給ではあったものの、紙の裁断くずで作ったベッドと温かい食事は、ハーンにとって最高の贈り物でした。
二人は無類の読書好きという共通点からすぐに打ち解け、ハーンはワトキンを「父さん」と呼び、生涯にわたって交友を続けました。
印刷屋で働きながら、ハーンは図書館に通ってフランス文学を読みあさり、物語を書きました。
彼の目標は、物書きになることだったのです。
そして1872年、彼は思いきって新聞社『シンシナティ・インクワイアラー』へ原稿を持ち込みます。
この原稿は、「ラフカディオ・ハーン」の署名とともに誌面を飾りました。
その後、ハーンは『インクワイアラー』の正社員となり、記者として辣腕を振るうようになります。
彼は、短編小説のような生き生きとした記事を書き、読者を魅了しました。
ハーンを一躍有名にしたのが、「革なめし工場殺人事件」の記事です。
これは1874年11月9日『インクワイアラー』の第一面に大きく掲載されました。
「革なめし工場殺人事件」は、娘の復讐のため、父親が二人の共犯者とともに、犯人である革なめし職人を熊手で突き刺し大けがを負わせたうえ、工場の炉に投げ込んで焼き殺したという凄惨なものでした。
ハーンの記事は、まるでホラー小説のような迫力で人々の心を揺さぶり、『インクワイアラー』は増刷。
翌日には、アメリカ中の日刊紙がハーンの記事を引用するという快挙を成し遂げました。
禁じられた結婚と挫折

画像 : シンシナティのファウンテン・スクエア(1907年)public domain
記者として活躍していたハーンは、1875年、アリシア・フォリー(マティ)と結婚しました。
二人が出会ったのは、ハーンの下宿屋で、下宿屋の使用人として働くマティは、人付き合いが苦手なハーンの良き話し相手になってくれたそうです。
マティは、白人農場主と黒人奴隷との間に生まれたハーフでした。
彼女はまだ10代でしたが、14歳の時に産んだ息子を育てるシングルマザーでもありました。
一人で子どもを育てるマティを、ハーンは放っておけなかったのでしょう。
ハーンはこのとき24歳。
愛情というよりは同情に近い気持ちから、彼は結婚を決意します。
しかし、当時のオハイオ州には、白人と有色人種の結婚を禁じる法律がありました。
二人の結婚は、法を破る行為となってしまうのです。
当然、周囲は二人の結婚に反対し、マティ自身も結婚に躊躇していました。
それでもハーンは周囲の反対を押し切り、マティを説得して結婚を強行しました。
しかし、結局この結婚はうまくいきませんでした。
マティは家庭的な人ではなく、ハーンは仕事に追われて多忙を極め、二人の気持ちは次第にすれ違っていきます。
顔を合わせれば喧嘩が絶えず、生活に疲弊した二人は早々に別居しました。
その後マティは、借金や喧嘩などのトラブルにまみれた自堕落な生活を送るようになります。
ハーンは、「二人の結婚は間違いだった。救ってやるつもりが、以前よりも堕落させただけだった」と自分を責め続けました。
彼にさらなる追い打ちをかけたのが、『インクワイアラー』からの解雇でした。
理由は、ハーンが法律を破って結婚したことにありました。
正社員の地位を失ったハーンは、すぐさまライバル紙に転職しますが、給料は『インクワイアラー』よりも安いものでした。
短い結婚生活の代償はあまりにも大きく、1877年10月、ハーンはシンシナティを去り、二人の結婚は決定的な破局を迎えたのです。
その後、ハーンが特定の女性と恋愛関係になることはありませんでした。
セツとの幸せな結婚とハーンの心境の変化

画像 : ラフカディオ・ハーン public domain
シンシナティを去った後、ハーンはニューオーリンズ、西インド諸島のマルティニークを経て、1890年に日本へとやって来ました。
英語教師として赴任した松江での生活は、ハーンにとってまさに天国のようでした。
昔ながらの風俗や風習が随所に残る神々の国であり、古き良き時代の面影を色濃く残す城下町。
ハーンの好奇心は尽きることがありません。
生徒も同僚も市民も皆、あたたかい愛情と深い尊敬をハーンに抱き、ハーンもまた彼らを心から愛しました。
そして、なによりもハーンの心に大きな影響を与えたのがセツでした。
セツは家族のために「ラシャメン」と呼ばれることを覚悟して女中となった女性です。
彼女の過去を知ったハーンは、彼女に深い同情を寄せました。
自身も家の没落を経験し、ホームレス同然の生活を送ったことがあるハーンには、家族を抱えて一人奮闘する彼女の気持ちが痛いほど分かったのです。
さらに二人は、離婚経験者であり怪談好きという共通点を持っていました。
これもまた二人が心を通わせる要因となったのかもしれません。
やがて同情は愛情へと変わり、二人が事実上の夫婦になるまでに時間はかかりませんでした。
セツは献身的にハーンに尽くし、特に健康に気を配りました。
暮らし始めて1年ほど経った頃、ハーンは以前より体が丈夫になり、「着物が小さくなってしまった」と言ったそうです。
それに対してセツは、「良い奥さんを持ったからだわ」と茶目っ気たっぷりに返しました。
ハーンは、アメリカにいる親友のエルウッド・ヘンドリック宛の手紙に、
「私の家庭生活は、この上なく幸福なものとなり、まさに私がこの地を去りたいと思い始めた時に、私をこの土地にしっかりと縛り付けることになってしまいました」
と記しています。
マティとの苦い経験から恋愛や結婚に慎重になっていたハーンの心を、セツは優しくほどいていったのでした。
家族という居場所を見つけたハーン

画像 : ラフカディオ・ハーンとセツ public domain
ハーンは、家庭のあたたかさを知らずに育った人でした。
幼い頃に母と別れ、その後両親は離婚。精神的な愛に飢えていた彼が、41歳にして初めて家庭の温もりを味わうことができたのです。
家族の愛に囲まれた穏やかな暮らしは、ほんの一時のつもりで日本へ来たハーンを、結局この国に根付かせることになります。
彼は俸給のために望まぬ仕事に就き、西洋人が日本に帰化することなどほとんど例のない時代に、日本国籍を取得しました。
ハーンは、自分や母を捨てた父親のようにはなりたくなかったのです。
自らを犠牲にして家族に尽くす夫に対して、セツは後に次のような言葉を残しています。
「ヘルンは私共妻子のためにどんなに我慢もし、心配もしてくれたか分りません。気の毒な程心配をしてくれました。帰化の事でも好まない奉職の事でも皆そうでございました。」(小泉セツ著『思い出の記』より)
ハーンは、家族を守るためにすべてを捧げました。
そして、セツと築いた家庭こそが、彼にとって確かな居場所となったのです。
参考文献
小泉セツ『思ひ出の記』ハーベスト出版
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』潮出版社
田部隆次『小泉八雲』中央公論新社
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部
























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