戦後、『東京ブギウギ』のヒットで「ブギの女王」といわれた笠置シヅ子。彼女の出発点は「大阪松竹少女歌劇団」でした。
少女歌劇とは、少女もしくは女優のみで演じるレビューやミュージカルなどの舞台芸能です。
大正から昭和初期は少女歌劇全盛の時代で、全国各地に少女歌劇団が乱立。関西だけで約80もの歌劇団がありました。
今回は、笠置シヅ子が舞台人としての才能を開花させた、少女歌劇の世界をひも解いてみたいと思います。
目次
少年・少女の愛らしさが求められた大正時代
大正時代は「大正デモクラシー」に象徴されるように民主主義的な考え方が台頭し、女性や子供が注目されるようになった時代です。
明治末期に大手呉服店が百貨店へと変わり、子どもをターゲットとした新事業を展開します。
1910年(明治43)、東京の三越百貨店は余興のための少年音楽隊を創始。英米の軍楽隊風の制服姿で演奏する少年たちは、とても愛らしく評判となりました。
翌1911年(明治44)には、「三越少年音楽隊」に対抗して東京日本橋の白木屋が「白木屋少女音楽隊」を結成。店内で音楽演奏や演劇などの上演を行い、これが日本初の「少女歌劇」といわれています。
女学校をめざした宝塚音楽歌劇学校。小学校卒の少女には狭き門だった
阪急電鉄創業者の小林一三が、「三越少年音楽隊」と「白木屋少女音楽隊」に着想を得て作ったのが、宝塚少女歌劇です。
1914年(大正3)、宝塚新温泉で始まった宝塚少女歌劇は、1918年(大正8)に文部省の許可を受けて「宝塚音楽歌劇学校」を設立します。
小林は、「宝塚音楽歌劇学校」をただの舞台人養成所ではなく、「上品で慎み深い良家の娘の通う女学校のようにしたい」と考えていました。
女学校とは高等女学校のことで、中流以上の家庭婦人になるための高い教養や品性、道徳性を身につけさせることを目的としていました。
大正時代、女学校へ進学できたのはわずか10~20%程度。家庭の経済状況に恵まれ、一定水準の学力を備えたごく一部の少女たちでした。
そんな女学校を目標とした小林の目論見とは相反して、初期の宝塚の生徒は行儀の悪さや教養の低さが目立ち、女学生らしさからは程遠いものでした。
歌劇学校では、芸事を教わりながら給金ももらえるので、小学校卒業後すぐに職に就かなければならない少女にとっては、打ってつけの就職先だったのです。
そこで劇団は、生徒の半分を女学校卒業者にするという目標を掲げ、女学校出身者の入学を奨励するようになります。
優秀な人材獲得のため、小学校卒業者は成績が「全甲か平均80点」といった厳しい基準を設け、1930年代には女学校出身者が入学者の半分を占めるようになりました。
音楽部長に直談判し「松竹楽劇部生徒養成所」に進んだ笠置シヅ子
1927年(昭和2)、シヅ子は宝塚音楽歌劇学校を受験します。
母・うめの勧めで、幼いころから唄や踊りなどの芸事を学んでいたシヅ子は自信満々でしたが、背が低く、極端に痩せていたため最後の体格検査で不合格となってしまいました。
意気消沈したのもつかの間、宝塚がダメなら松竹だと道頓堀の松竹座を訪れ、音楽部長・松本四郎に直談判し、思いの丈をぶつけたところ、
“ようしゃべる娘やなぁ。そんなにしゃべれるのやったら、体も悪いところはないやろ。明日からうちに来てみなはれ”
と入所を許可され、研修生として「松竹楽劇部生徒養成所」へ通うことになったのでした。
松竹は、1895年(明治28)に創業した老舗の興行会社です。歌舞伎の興行を独占し、大正時代には新派、演劇、映画などに手を広げ、京阪神をはじめ東京にも多くの劇場を所有していました。
1922年(大正11)には、宝塚少女歌劇の影響を受け、「松竹楽劇部生徒養成所」を設立。
老舗ならではの古い体質で、養成所は礼儀や上下関係に厳しく、シヅ子のような新人の仕事は楽屋の掃除、備品の管理、先輩の付き人兼雑用係りでした。
仕事の合間に踊りや歌の稽古があり、朝から晩までバタバタと忙しく、休む暇はありません。
40~50名いた新人は、半年後には半分も残らないという厳しい世界でした。
シヅ子は研修生として生き残るため、仕事や稽古に懸命に努め、いつ代役のオファーが来てもいいように台本はすべて暗記していました。
その甲斐あって、入所して半年で舞台デビューを果たします。「三笠静子」の名で、水玉の精という端役でした。
何事にも手を抜かないシヅ子は先輩からも可愛がられ、多くの出演機会を得ることができましたが、その分、同期からは妬まれたといいます。
1928年(昭和3)、松竹は東京浅草に松竹座を開場し、「東京松竹楽劇部」を設立。東京進出を果たします。
「東京松竹楽劇部」第1期生には、「男装の麗人」水の江瀧子がいました。
蒼井優さん演じる大和礼子のモデルで、瀧子はシヅ子の一歳年下。
ふたりはとても気が合ったようです。
異色の少女歌劇 ~芸者によるダンス劇団「河合ダンス」~
大正から昭和の初めにかけては、宝塚や松竹以外にも数多くの少女歌劇団が活動していましたが、他とは一線を画す異色な存在だったのが、芸妓による少女歌劇「河合ダンス」でした。
河合ダンスは、1921年(大正10)、大阪宗右衛門町でお茶屋「河合」を経営していた河合幸七郎が立ち上げたバレエ劇団です。
演目はバレエの他にタップやアクロバティックなダンス、演劇、ピアノやサキソフォン等の楽器の演奏などでした。
8歳から20代前半までの30人ほどの団員は、宗右衛門町の富田屋、大和屋、伊丹幸などのお茶屋に身を置いた芸妓で、お座敷をつとめながら活動していました。
ロシア革命から逃れてきたバレリーナの先生のもと厳しいレッスンが行われ、幸七郎自身も舞台監督やダンス教師を担い、研究熱心な彼は海外へ舞台視察にも行きました。
芸者たちの洋舞ということで当初は軽く見られていましたが、大正12年の初公演では大喝采をあび、新聞で評論家が「非常な鍛錬を経ている」と絶賛するほどでした。
1924年(大正13)、東京の帝国劇場を皮切りに全国で定期公演を行い、アメリカ風の派手なレビューとは異なる芸術的な演技が評判となりました。
大小さまざまな劇団が全国で一大ブームを巻き起こした「少女歌劇」ですが、太平洋戦争の混乱の中、そのほとんどが静かに姿を消しました。
参考文献:津金澤 聰廣/近藤 久美【編著】『近代日本の音楽文化とタカラヅカ』.世界思想社
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