朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。同期のリリー白川や後輩の秋山美月の人気上昇に焦りながら、自分の才能や売りに悩む鈴子。
鈴子の実在モデル笠置シヅ子も同じ悩みを抱えていました。
戦後「ブギの女王」と呼ばれ、大スターとなるシヅ子は、いったいどのようにして自身の才能を開花させたのでしょうか?
才能と売りに悩む笠置シヅ子
激しくダイナミックなラインダンス。
後に「歌の宝塚、ダンスのOSK」と称されるように松竹少女歌劇のレビューはダンスの評価が高く、劇団も歌よりもダンスに力を入れていました。
そんな中、笠置シヅ子は悩みを抱えていました。
猛練習の成果もあってダンスは上達したものの、シヅ子は身体が小さく舞台映えしなかったのです。
入団当初そのうち伸びると思っていた身長は、その後もあまり伸びず150㎝。後輩にもどんどん抜かれてしまい、心配した音楽部長の松本四郎は、シヅ子のために瓶に詰めた牛の生血持ってきて飲ませたほどでした。
このままでは端役のまま終わってしまう。焦り、悩むシヅ子がたどり着いたのは、歌でした。
踊りより歌。ジャズとの出会い
桃色争議の後「トップスター10選」に選ばれ、徐々に頭角を現していたシヅ子が、ダンスよりも歌に力を入れるようになったのは、レコードデビューがきっかけでした。
1934(昭和9) 年、シヅ子は当時の芸名・三笠静子(翌年、笠置シヅ子に改名)の名前で『カイエ・ダムール』の主題歌「恋のステップ」を初録音。
幻のデビュー曲と言われる「恋のステップ」は、当時アメリカで流行していたスイング・ジャズを取り入れた明るくアップテンポな曲調です。
当時、ジャズは輸入レコードの普及により、新しい刺激的な音楽としてダンスホールなどで盛んに演奏されていました。
松竹楽劇部の音楽部長・松本四郎は、クラシックには非常に厳格でしたが、ジャズはパーソナリティが第一だといい、シヅ子の好きなように歌わせました。
このいい意味での放任主義が、シヅ子の持つ個性や才能を開花させるきっかけになったのでしょう。歌のレッスンによりいっそう熱が入り、稽古のし過ぎで喉をつぶすことはあったものの、抜群の歌唱力によって劇団で唯一無二の存在となりました。
後年、シヅ子は自分がどうにか歌えるようになったのは、松本先生のおかげだと感謝の言葉を残しています。
ちなみに松本四郎は作曲家で、現在でも「OSK日本歌劇団」で歌われているレビュー「春のおどり」のテーマソング「桜咲く国」を作った人です。
服部良一との出会いで才能が一気に開花する ~松竹楽劇団~
日中戦争が勃発した1937(昭和12)年、松竹は浅草国際劇場をオープンします。
5000人を収容できる国内最大の劇場で、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)はレビュー「国際大阪踊り」を公演。シヅ子も出演しました。
この時の好演が東京松竹の関係者の目にとまり、松竹が日劇ダンシング・ チームに対抗して立ち上げた松竹楽劇団(SGD)にシヅ子はスカウトされます。
当時の映画館では、映画を上映する合間に演劇やショーを見せるのが流行しており、松竹は洋画とレビューの二本立てを目的に、1938(昭和13)年、SGDを設立。
SGDは、少女歌劇の得意とするダイナミックで情熱的なダンスと刺激的なジャズをたっぷり盛り込んだ、男女共演の大人向けレビューを目指していました。
専属団員として東京で新たな人生を始めることになったシヅ子の運命を大きく変えることになるのが、SGDの副指揮者に就任した服部良一です。
彼はアップテンポでダンスと相性のいいホット・ジャズに精通した新進作曲家でした。
1938(昭和13)年、帝国劇場で行われた『スイング・アルバム』の旗揚げ公演で、二人は初めて出会います。
以前からシヅ子の評判を聞いていた服部は、どんな歌姫だろうと彼女との対面を楽しみにしていましたが、挨拶に現れたのは目をショボショボさせた地味な女性。
落胆を隠せない服部でしたが、舞台稽古が始まった途端、落胆は驚きへと変わりました。
舞台の袖から勢いよく飛び出し、「オドッレ、踊れ!」と楽団の音楽に合わせ、大音声で激しく唄い踊るシヅ子の迫力に服部は圧倒されます。
共演者がかすんでしまうほどの存在感と抜群のスイング感。彼はシヅ子の才能にほれ込み、一流のジャズ歌手へと成長させるべく彼女の音楽の師となります。
服部のレッスンは厳しいことで知られていました。特に、ジャズは地声で歌うものという持論を実践するため、シヅ子は地声で歌うことを命じられます。
舞台で疲れていても稽古を休むことは許されず、できなければ何度でも納得のいくまでレッスンは続きます。
夜遅くまで稽古場で練習に励み、喉をつぶして医者に休むように言われてもシヅ子は歌い続けました。
服部の指導によってシヅ子の才能は見事に開花し、格段に迫力を増したスタミナのある声量とジャズにぴったりな魅力的な声質へと変化していきます。
1939(昭和14)年4月、『カレッジ・スイング』の公演で、シヅ子は「ラッパと娘」を歌い、トランぺッターとの掛け合いを披露。
大きな身振りや表情をつけて歌う彼女に観客は魅了されました。
この公演を見た映画評論家の双葉十三郎は、雑誌「スタア」に寄稿した「笠置シヅ子論」で
“彼女ほど、スウイングのリズムに乗れる歌手の例を、不幸にして僕は他に知らない。”
とシヅ子を絶賛しています。
自分の才能に悩んでいたシヅ子は、ジャズとの出会い、音楽の師との出会いを経て、劇団旗揚げ後わずか1年で、「スイングの女王」の称号を手にしたのでした。
参考文献:
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子 心ズキズキワクワクああしんど』.潮出版社
笠置シヅ子『笠置シヅ子自伝 歌う自画像 私のブギウギ伝記』.宝島社
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