戦時中、羽鳥善一のモデル・服部良一は陸軍から召集を受け、上海へ渡っています。
彼に課せられた任務は、「文化工作」でした。
服部が担った特殊任務「文化工作」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
陸軍報道班員・服部良一
昭和19年(1944年)6月、服部良一は陸軍報道班員として召集され、任務地である上海へと向かいます。
下関から船に乗り、釜山から汽車で南京を経由して降り立った上海は、戦時下と思えないほど静かで平和な街でした。
灯火管制のため不夜城と言われたネオンはさすがに消えていましたが、ダンスホールは戦前と同じように営業を続けていました。
服部良一に与えられた上海での任務は、音楽を通じて日本陸軍と地元市民との融和を図ることでした。
共同租界を制圧した日本軍が、国際都市・上海を平和に維持しているということを世間にアピールするため、それまで軍主催の音楽会が何度も開かれていました。
しかし、山田耕作や近衛秀麿といった音楽会の大御所を招き、『愛国行進曲』や『海行かば』をレパートリーとする軍歌一色の音楽会は、市民には不評でした。
軍部はジャズの街・上海にふさわしい人物を呼ぶ必要に駆られ、服部に白羽の矢が立ったのでした。
上海での生活
上海に赴任した服部にあてがわれた住居は、将校クラスしか住めない共同租界の高級アパートでした。
外国人居留地である共同租界には、食べ物もお酒もふんだんにあり、特に長い間飲めなかったビールは、大のビール党である服部にとって格別だったようで、当時、東京の家族の元に届けられた服部の手紙には、「パパは毎日宴会です」と書かれていたそうです。
また丸刈りや軍服では市民の反感を買い、かえって身の危険があるという上海特有の理由から、背広の着用が許され、音楽家として自由に外国人と付き合うことが奨励されました。
服部のもとには地元の作曲家が訪れるようになります。李香蘭(山口淑子)のヒット曲『夜来香(イェライシャン)』を作曲した黎錦光(れい・きんこう)もその一人で、服部は同い年の黎と意気投合し、親睦を深めていきました。
午前中は作曲と編曲の作業、午後は地元のミュージシャンとの交流で、夜は酒。月に1度の音楽会では、ジャズ風にアレンジされた日本や中国のヒット曲の指揮を担当し、音楽会は評判となりました。
『夜来香ラプソディ』でブギの実験
服部良一が上海に来てから1年。戦局は悪化の一途をたどり、米軍に制海権、制空権を奪われ、日本と上海を行き来する手段が絶たれました。
シベリア送りかその場で銃殺か。この頃、服部は「生きて日本に帰ることはできない」と考えるようになっていました。
昭和20年(1945年)初夏、悪化する情勢の起死回生を願って、日中合作で音楽会が開かれることになります。
場所は、上海競馬場前のグランド・シアター。楽団は60人編成のオーケストラ・上海交響楽団。歌手には人気女優・李香蘭を招き、彼女の代表曲『夜来香』を演奏することが決まりました。
服部は、積年の夢であったシンフォニック・ジャズを一流のオーケストラで試してみたい欲求に駆られ、『夜来香』の編曲を提案します。
服部の担当将校・中川牧三中尉はイタリア仕込みの声楽家で、自身も芸術家のため文化人に理解が深く、服部の意見に快諾してくれました。
音楽会のメインレパートリーは『夜来香ラプソディ』に決まり、服部は編曲に2週間を費やしています。
上海交響楽団は、メンバーのほとんどがロシア人とイタリア人で、クラシックしか演奏しないという誇り高い楽団でした。
初顔合わせでは、あからさまに服部を見下していた彼らでしたが、服部の用意した楽譜を見てそのすばらしい出来に感嘆し、服部をマエストロと呼ぶようになります。
音楽会当日、幕が上がり、手に白い夜来香の花を持った李香蘭が舞台に登場。花を客席に投げると拍手が沸き起こり、オーケストラによる『夜来香ラプソディ』のメロディが流れました。
服部は『夜来香ラプソディ』で、ある実験を試みていました。終章にブギウギのリズムを入れたのです。
ピアノとベースが8ビートのリズムを刻むと、聴衆は体を揺らして立ち上がり、ダンスを始めました。服部はブギウギに手ごたえを感じました。
曲が終わっても聴衆のスタンディング・オベーションは止まず、音楽会は大成功のうちに幕を閉じました。
死を覚悟して迎えた終戦
昭和20年(1945年)8月15日、服部は陸軍報道部で玉音放送を聞き、終戦を迎えました。
その夜、「音楽家には国境がないのだから、これからも仲良くやりましょう」と言って、黎錦光ら地元の作曲家が酒瓶を片手に服部のアパートを訪ねて来ました。身の危険も顧みず、以前と同じように接してくれる彼らの優しさに、服部は頭が下がる思いだったそうです。
9月になると上海の日本人は全員捕虜として集められ、服部は日本人の経営する旅館へと移されます。
12月、日本人の引き揚げが始まり、服部は引き揚げ船「名友丸」で出港。船は鹿児島県の漁港串木野に到着し、握り飯と金一千円を与えられました。
屋根のない貨物列車で一昼夜かけて東京へ戻り、有楽町方面へ歩いていると、空襲を免れた日本劇場が見えてきました。
ふと立ち止まり眺めた看板には、灰田勝彦や笠置シヅ子といった懐かしい名前が書かれています。戦争に敗れた日本で、音楽の世界はすでに再スタートを切っていることを痛感した服部の心の中に、仕事への意欲がわいてきました。
家族の安否が気になり、その日はまっすぐ吉祥寺の自宅へと戻りましたが、翌日には日劇とコロムビアのスタジオを訪れ、かつての仲間と再会。
服部良一は、早々と戦後の音楽活動をスタートさせたのでした。
参考文献
服部良一『ぼくの音楽人生』.日本文芸社
上田賢一『上海ブギウギ1945』.音楽之友社
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