笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)の再起をかけた『東京ブギウギ』は大ヒットし、レコードは発売当時27万枚の売上を記録しています。
楽曲であろうと何であろうと、ものを売るためには広報や宣伝などの仕掛けが必要になるのが世の常ですが、『東京ブギウギ』もレコード発売にあたり、さまざまな戦略を立てていました。
今回は『東京ブギウギ』のヒットの仕掛けについて紐解いてみたいと思います。
目次
新人の作詞家は、仏教哲学者「鈴木大拙」の息子・鈴木勝
夜の中央線の車内で、揺れるつり革をヒントに「ソラドミレドラ」というメロディーが頭に浮かんだ服部良一は、駅に電車が到着すると喫茶店に飛び込み、紙ナプキンに音符を書き連ねました。
長年温めてきたブギウギが完成し、曲名は『東京ブギウギ』に決定。次は歌詩を考えなくてはなりません。
この時、服部は
「新しいリズムには既成観念のない新しい作詞家の方がいい」(『ぼくの音楽人生』)
と考え、上海で知り合った鈴木勝に白羽の矢が立ちました。
鈴木勝は、海外に禅を広めたことで知られる仏教哲学者・鈴木大拙の養子で、ハーフだった彼は語学が堪能であり、通訳などの仕事をしていました。
作詞の依頼を快諾した鈴木は、数日後、服部のもとへ詩稿を携えて来ました。出来上がった詩をさらに二人で手直しし、ついに『東京ブギウギ』は完成したのでした。
観客はアメリカ兵 ライブ録音で「これは売れる」と確信した服部良一
昭和22年(1947年)9月10日。内幸町のレコーディングスタジオで、申し訳なさそうにうつむく鈴木勝の姿がありました。
当時スタジオの隣にあったビルは接収され、進駐軍の下士官クラブとなっていました。
鈴木は軽い気持ちで、「自分が作詞したブギウギの録音があるから見に来いよ」と2、3人の米兵に声をかけていたのですが、なぜか我も我もと大勢が押しかけ、スタジオからあふれんばかりの兵士たちが、シヅ子やコロムビア・オーケストラのメンバーを取り囲んでいるのです。
しかも困惑顔の関係者をよそに、ビール片手にほろ酔い気分で騒ぐ米兵たち。甚だ迷惑な彼らですが、無下に追い返すわけにもいかず、そのままレコーディングは決行されることになりました。
服部がタクトを構えると同時に、騒がしかった兵士たちは水を打ったように静まり返りました。シヅ子のパンチの効いた歌声が響き渡り、いっせいに体を揺すりスイングを始める米兵たち。シヅ子もそれに呼応します。
笑顔で満ち溢れたスタジオ内に録音の終了を告げるOKランプが点灯すると、兵士たちからは歓声と拍手が沸き起こりました。早速『東京ブギウギ』を大合唱する彼らを見ながら、服部はブギウギの成功を確信しました。
知名度抜群の「漫画集団」とコラボ
レコードの発売日が翌年の1月に決まり、発売までの間に観客の反応を見るため、『東京ブギウギ』の舞台披露が決まりました。
「とにかくブギは、からだを揺らせてジグザグに動いて踊りながら歌うんだ」(『ぼくの音楽人生』)
という服部の助言のもと、シヅ子は舞台で所狭しと踊りながら、『東京ブギウギ』を歌いました。
大阪梅田劇場での大成功に続き、翌10月には、東京日劇で行われる「漫画集団」の舞台『踊る漫画祭り・浦島再び龍宮へ行く』での上演が決定します。
漫画集団は『フクちゃん』で有名な横山隆一などによる漫画家のグループで、当時、抜群の知名度を誇っていました。
漫画集団とのコラボが新聞や雑誌で取り上げられると『東京ブギウギ』は大きな話題となり、爆発的なヒットのきっかけとなったのでした。そのため 服部は漫画集団を『東京ブギウギ』の陰の功労者と評しています。
映画とタイアップ 映画『春の饗宴』の劇中歌に起用された『東京ブギウギ』
1月のレコード発売に合わせて、12月30日封切の正月映画『春の饗宴』にシヅ子は出演し『東京ブギウギ』を歌っています。
テレビが無かったこの時代、人々にとって最大の娯楽は映画であり、映画の挿入歌や主題歌に使われることが流行歌のヒットの条件でした。
シヅ子は、約3分半、舞台の端から端まで踊りながらフルコーラスで『東京ブギウギ』を歌い、歌の最後でレコードにはない「ギャーッ」という奇声を発しています。
映画は舞台に足を運べない人々が、歌手が歌う様子を堪能できる唯一の機会であり、シヅ子のダイナミックなダンスや圧倒的な歌唱は、日本中の観客に強烈な印象を残しました。
昭和23年(1948年)1月、満を持してレコードが発売されると、ラジオからはシヅ子の声を聞かない日がないと言われるくらい『東京ブギウギ』が繰り返し流れるようになり、人気はますます過熱。子どもまでもが口ずさむようになります。
『東京ブギウギ』大ヒットの裏には、舞台や映画とコラボし、ラジオを通して拡散していくというメディアミックス的な仕掛けがありました。
こうして戦後の歌謡界を席巻した『東京ブギウギ』は、笠置シヅ子が「ブギの女王」へ君臨する第一歩となったのでした。
参考文献:服部良一『ぼくの音楽人生』.日本文芸社
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