『虎に翼』では、様々な立場の女性が登場します。
サラリーマン家庭の妻と子女、華族のお嬢様、留学生、そして農家の娘。それぞれが事情を抱えているのですが、貧しい農家の娘・山田よねの過去はあまりにも壮絶でした。
当時は、都市と農村、富裕層と貧困層の間に、今では考えられないような大きな格差がありました。
ドラマでは、登場人物の階層が、華族と庶民、庶民の中の富裕層と貧困層とに分けられています。
今回は、山田よねに代表される、戦前の貧困層の暮らしを見ていきたいと思います。
昭和一桁時代の日本
ドラマで描かれた頃の日本は、昭和5年の調査によると、人口約6400万人、就業者総数2900万人のうち農業人口は1370万人で、第一次産業に従事する人口比率が約50%を占める農業国でした。
農業人口のうち600万人は女性で、女性は農作業の重要な担い手となっていました。
小学校を卒業すると大部分の人が農業や家業を手伝ったり、商店や工場で働いたりする時代でしたが、都市部では郊外から都心のオフィスへと通勤する「サラリーマン」の大衆化が進んだ時期でもあります。
サラリーマンの平均月収は100円(現在の価値にすると約20万円)。年収1200円が普通に生活できる目安だったそうです。
農村の貧困と少女の身売り
農村では、土地を持たずに農作業だけを請け負う「小作人」が半数を占めており、彼らは一定額の「小作料」を地主へ納めることで、農地を使わせてもらっていました。
小作人の生活は農作物の価格や出来高によるところが大きく、ひとたび価格の暴落や凶作になると生産費を回収することができず、生活は困窮してしまうのでした。
特に昭和初期に起きた農産物の価格の下落や凶作で、農村は大きな打撃を受けており、昭和4年に1326円あった農家の平均所得は、昭和6年にはなんと650円になっています。
さらに昭和6年の農家の負債は、一戸あたり千円超。当時のサラリーマンの年収に相当する額の借金を背負っていたことになります。
昭和9年に東北地方は冷害による大凶作に見舞われ、農民の困窮はさらに深刻化し、欠食児童や少女の身売り、一家心中などが頻発しました。
昭和9年 (1934)12月2日付の朝日新聞によると、借金で住む家をなくし、やむにやまれず14歳になる娘を名古屋の娼妓屋に売ったという農家は、5年で450円の契約で前借金を受け取るはずが、周旋料だの着物代だのと、いろいろと口実をつけて差し引かれ、結局手元に残ったのは150円。
70円の借金を返し40円で家を買って、残った40円はあっという間に消えてしまったそうです。
また、子女の前借金等の状況に詳しい『北海道凶荒災害誌』によると、作女・女工・女中・子守等は前借金が少なく、女中は前借金月2円で一年間、女工は80円で5年間、子守は7円で8カ月という契約例もあり、少額の前借金で働く年季奉公に出る少女もいました。
一方、芸妓は前借金300円で3年間、酌婦は前借金60円の報酬月12円で1年間の契約で、これら接客関係の業種では前借金が高くなっています。しかし、芸妓や酌婦は借金が返せず、最終的には身売りになるものが多かったようです。
以前から農村では少女の「身売り」が行われており、問題を重く見た政府によって昭和8年10月1日、「児童虐待防止法」が施行されますが、事態は改善されず、昭和9年には東北6県の女子の出稼ぎは58000人にのぼり、そのほとんどが娼妓などの風俗産業へと売られていきました。
当時「売春天国」といわれた東京で、最大の供給源となっていたのが農村出身の女性たちだったのでした。
都市部の貧困層
昭和4年の調査では行政の援助を必要とする「細民」は、東京都だけで40万人。
昭和恐慌以降、都市部でも急激に貧民が増加し、「貧民窟」と呼ばれるスラムが、いたるところで見られるようになります。
東京には下谷、浅草、小石川、深川、芝、京橋、神田、赤坂、麻布、牛込、本郷、四谷などに貧民窟があり、日雇い人夫や未亡人、孤児などが劣悪な環境で暮らしていました。
昭和6年の全国の失業者数は500万人に及ぶといわれ、同じ年に行われた東京市の調査によると、市内の尋常小学校を出た少年少女のうち約6千人が、商店や芸者屋で人身売買同然の条件で働かされていたということです。
また昭和初期には、公娼や酌婦、カフェーの女給、私娼として約15万人が売春に従事しており、その数は当時の15歳から35歳までの女性の約76人に一人に相当します。
大の男でさえ働きたくても職がないという時代に、それまで女性の仕事として定着していた製糸・紡績業が昭和恐慌の打撃を受け、女性が働く場はほとんどなかったのでしょう。借金や家族の生活のために、体を売るほかなかったという女性も少なくなかったのです。
さいごに
苦界に落ちた姉を助け出すために、山田よねが弁護士に報酬として差し出すことができたのは、結局その身でしかなかったでしょう。
身を売るのがイヤで女をやめ、家から逃げ出したよねにとって、まさに地獄としか言いようがありません。戦前には、よねや彼女のお姉さんと同じような過酷な人生を送った人が大勢いました。
背負っているものを考えると、彼女が寅子たちに向かって「あたしとあんたらは違う」「余裕があって恵まれたやつらに腹が立つ」と言ったのもうなずけます。
「法に勝る力なし」を信条とするよねが弁護士になり、「なめ腐ったやつらをたたきのめす」姿をぜひ見せて欲しいですね。
参考文献
岩瀬彰『「月給百円」サラリーマン』.講談社
札幌市中央図書館.新札幌市史デジタルアーカイブ『新札幌市史 第4巻 通史4』
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