朝ドラ『虎に翼』では、戦争孤児の問題に頭を悩ませる主人公・寅子の様子が描かれました。
ドラマと同じように、終戦後、上野や新宿、浅草は戦争孤児であふれかえっていました。
物乞いをしたり、靴磨きなどの生業でささやかな日銭を稼いだりして命をつなぐ子がいる一方、スリや万引きなどの犯罪に手を染める子も多く、人々は孤児たちを疎んじ、蔑むようになっていきました。
戦争の被害者でありながら、過酷な路上生活を送っていた彼らは、いつしか「浮浪児」と呼ばれるようになります。
今回は、浮浪児の一斉収容「狩込(かりこみ)」と、施設での過酷な生活について解説します。
狩込(かりこみ)による強制収容
1945年9月20日、孤児の保護を目的とした「戦災孤児等保護対策要綱」が次官会議決定され、東京都は戦争孤児の「一斉収容」、いわゆる「狩込」(かりこみ)に着手します。
同年12月15、16日の2日にわたって行われた上野地下道の「浮浪者狩込」では、約2500人の浮浪児・浮浪者が捕らえられ、施設に強制収容されました。
しかし、嫌がる子どもたちを無理やり捕まえてトラックに乗せ、収容所送りにする狩込は、保護とは名ばかりで野犬狩りと変わりませんでした。
戦争孤児が収容された東京養育院とは
浮浪児たちが収容されたのは、東京都が管轄している養育院です。
養育院は、 1872(明治5) 年、ロシアの皇子アレクセイの来日に際し、明治新政府が目障りな浮浪者約240人を本郷加賀藩の空き長屋に収容した「帝都の恥かくし」が始まりとされています。
路上生活者や病人、孤児などの窮民救済を目的とした施設で、初代院長には渋沢栄一が就任しています。
戦後、養育院は8ヶ所の児童保護施設をもつ浮浪者や浮浪児の収容施設となり、収容できる子どもの数は約1000人でした。
狩込でつかまった浮浪児は、まず一時保護施設の板橋養育院に収容されます。
全身、垢とシラミにまみれた子どもたちは、大量のDDTを頭から振りかけられ、ドラム缶の風呂に入れられました。
風呂は男女1つずつしかなく、風呂の湯はすぐに垢だらけになってしまうため、数十人の子どもを、職員総出で風呂に入れる作業にあたりました。
収容されてから数日後、子どもたちは中央児童相談所の職員による鑑別を受け、1か月のしつけを施されたのち、それぞれの施設へと移されます。
一般学童は都管轄の児童施設や各地の孤児院などへ移送され、障害のある子や虚弱児、乳児、不良化児童は、それぞれ対応する施設へと移されました。
一般学童の中でも高学年の子どもは、東北・信越地方の農家に労働力として預けられ、全国から多数の受け入れ申し込みがあったそうです。
公営保護施設での悲惨な生活
保護施設に収容されたからといって、浮浪児たちに穏やかな日々が約束されたわけではありません。
施設もまた世間と同じく食糧も生活必需品もまったく足りない状況で、職員の数も少なく、子どもたちへ十分な対応ができる状態ではありませんでした。
ボロボロの施設に定員の何倍もの子どもを収容し、貧しい食事を与えるだけが精いっぱいのあまりにも悲惨な状況に、市民から批判の声が上がるほどだったといいます。
たとえば、東京都安房臨海学園では、狭い部屋に大勢の子どもたちが詰め込まれ、寝返りも打てない生活でした。
便所には白くくねったうどんのような回虫がはっていて、一日中黙りこくったまま時計の振り子のように柱に頭をぶつけている子が7、8人はいたそうです。
特に食料不足は深刻で満足な食事も与えられず、収容されている5~16歳の戦争孤児140人中、137人が栄養失調に陥っていました。
また、終戦直後から激増した「捨て子」にも養育院は頭を悩ませていました。
附属病院の育児室には、ドブに捨てられた乳児や米兵との混血の赤ちゃんなど連日7,8人が連れて来られましたが、ミルクを入手できず、ほとんどが入所後一か月程度で亡くなっています。
亡くなっても、すぐまた新しい乳児が連れて来られ、その数は減ることがなかったそうです。
こうした凄まじい食料と物資の不足によって、養育院では日々夥しい数の入所者が亡くなりました。
火葬しようにも燃料不足でできず、火葬場から遺体の引き取りを拒否されたため、職員は日々土葬の作業に追われていました。
土葬は1946年9月まで行われ、埋葬された遺体は2701体にのぼります。
また、養育院から他の施設へ移送する前に餓死する子が多く、死んだ子どもが廊下にゴロゴロしている状況に自分の将来を重ねた子どもたちは、いてもたってもいられなくなり、脱走する子が後を絶ちませんでした。
狩込は月に2、3回行われましたが、保護してもすぐ脱走してしまうため、狩込と逃亡のイタチごっこが繰り返されていました。
施設から逃げ出す子どもと逃亡防止策
こうした「収容即逃亡」の現状に業を煮やしたGHQ当局から「どんな方法をとっても逃がすな」という厳しい指示が出され、養育院は徹底した強制収容へと変わっていきます。
窓には竹格子がはめられ、施設の周りに鉄条網を巡らせました。
念には念を入れて、収容されていた年長のやくざ上がりや、スリの常習犯を見張り番に付けたところ、彼らのドスの効いた凄みのある態度が、脱走防止にとても効果があったそうです。
また逃げられないように裸にして閉じ込める「ハダカ作戦」を行っていた施設もありました。
収容と逃亡のイタチごっこを繰り返した「狩込」は、1947年児童福祉法が整備され終焉を迎えます。
しかし、その後も保護は続き、戦争孤児が姿を消すのは昭和30年代に入ってからのことでした。
参考文献:浅井春夫・水野喜代志編『戦争孤児たちの戦後史3 東日本・満州編』.吉川弘文館
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