虎に翼

『虎に翼』 デートにも新婚旅行にも同行した華族令嬢の「お付き」とは

朝ドラ『虎に翼』で、元華族の涼子さまが「日傘からお弁当のふたを開けるまで、玉には世話になった」と言っていたように、華族令嬢には身の回りの世話をするお付き(お供)とよばれる使用人がいました。

「お付き」とは、どのような人たちだったのでしょうか?

華族のお嬢様と、お付きにまつわるエピソードを紹介します。

華族家の使用人とは?

画像 : 前田侯爵家駒場本邸.Wiiii.CC -継承3.0

一言に華族と言っても家の規模はさまざまで、多くの使用人を抱えていたのは、何といっても資産家華族といわれた旧大藩大名華族でした。

たとえば、旧加賀藩主・前田侯爵邸には136人もの使用人が働いていました。
最後の将軍、徳川慶喜家は、孫の榊原喜佐子さんによると、4千坪のお屋敷に50人あまりの使用人がいたそうです。

武家華族の家は、「」と「」に分けられており、「表」は対外的なことや会計など家の管理を行う場、「奥」は家族が日常生活を送る場でした。

「表」に設置された事務所では、家令を筆頭とした使用人が家政の運営を行い、金銭に関わることや家の重大な決定事項は、必ず「表」の了解を得なければならず、当主の一存で決めることは許されませんでした。

一方「奥」の使用人は「老女」を筆頭とする女中たちで、「お付き」もその中のひとりです。

家族一人ひとりにお付きが付けられ、身支度の世話や食事の給仕、子守、外出のお供をつとめます。夜は次の間に自身の布団を敷いて休み、主が病気の時は寝ずに看病をしました。

家の人と一緒に食事につくことはなく、仮にご相伴に預かることになってもお膳は使わず、両肘を膝に付け、前かがみになっていただくのが作法とされていました。

お付きは17、8歳頃から屋敷に上がり、結婚を機に辞める人もいれば、嫁にも行かず7、80歳くらいまで勤め上げる人もいたそうです。

幼稚園から新婚旅行まで、お嬢様の行くところ、どこへでもお供するお付き

お付き

画像.学習院女学部中学科の授業風景(1915年)public domain

「お上のいるところにお付きあり」と言われたくらい、お付きはお嬢様の行くところ、どこへでもお供しました。

小さいうちは邸内でも庭でも必ずついて行き、学習院の付属幼稚園に通う頃になると、お付きは子どもたちと一緒に人力車や自動車で登園します。

幼稚園には「供待ち部屋」とよばれる畳敷きの広い待合室があり、そこには裁縫を教えてくれる先生もいて、お付きたちはお針箱持参で裁縫を習いながら、子どもたちを待っているのでした。

ただし、小学校には「供待ち部屋」はなく、お付きは門までで中へは入れなかったそうです。

華族のお嬢様は、基本一人で出歩くということは許されません。外出には常にお付きがお供し、電車では男性の隣に座らないように促されました。

また親が心配性で、婚約後のデートにもお付きがお供し、3人でデートしたというお嬢様もいました。

さらに、新婚旅行にまでお付きをつけられたというケースもあり、さすがにその時はお付きが嫌がって「私はずっと一緒にいたことにしましょう」と言ってくれたので、口裏を合わせて別行動をしたそうです。

ちょっと変わったところでは、旧鳥取藩主・池田侯爵の長女・幹子(もとこ)さんの富士登山にもお付きが同行しています。

幹子さんは、中学3年生の時に初めて富士山に、しかもスカート姿で登ったのですが、健康診断に合格した3人の奥女中がお付きとして、一緒に登山をしています。

戦後、開拓民という道を選んだ幹子さんは、この頃から活発なお姫様だったようで、お付きの方も大変そうです。

戦後、お嬢様の心の支えになったお付き

画像. 華族イメージ(神田男爵家.1911年)public domain

戦後、華族制度が廃止され、華族たちの生活は大きく変わります。

徳川宗家公爵家令嬢として育ち、上杉伯爵家に嫁いだ上杉敏子さんも、新しい生活に右往左往する毎日でしたが、そんな彼女の心の支えになったのがお付きだったと言います。

昭和15年、嫁ぎ先の上杉家で付けてくれたお付きは、敏子さんより3つ年上の若い女中さんでした。
彼女は疎開先にも同行し、敗戦後、華族解体によって使用人を置いておける状態でなくなってからも、ずっと上杉家に残ってくれていました。

世間を知らず新しい生活にとまどう敏子さんにとって、市井を良く知る彼女は心強い味方でもあったのでしょう。

4人の子どもの子守はもちろん、食事の支度や掃除などの家事をしてくれるお付きに、敏子さんは全幅の信頼を寄せていました。

戦前から戦後の混乱期を共に乗り越えてくれたお付きは、「70代になって、もう働くのがつらくなったから」とお暇をもらったそうです。

華族家では母親と子どもの間にお付きが存在し、子守からしつけまで、お嬢様のお世話をしていました。
口うるさく、時に煙たいとは思っても、華族のお嬢様にとってお付きとは、頼れる姉妹のような存在だったのかもしれません。

参考文献:
華族資料研究会編『華族令嬢たちの大正・昭和』 吉川弘文館
徳川幹子, 森実与子『絹の日土の日: ハイカラ姫一代記』PHP研究所
榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』 草思社

 

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