……其國本亦以男子為王 往七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國……
※『魏志倭人伝』より
【読み】その国、もとまた男子をもって王となす。往くこと七、八十年、倭国は乱れ、相(あい)攻伐(せめう)ちて年を歴(ふ)る。
すなわちある女子を王となして共に立つる。名を曰く、卑弥呼と。鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。
年すでに長大にして夫壻(ふせい)なく、男弟ありて治国を佐(たす)く。【意訳】その国は元来男性の王を立てていた。そのため70~80年にわたって倭国は戦乱に陥り、互いに攻め合いながら歳月を経たという。
そこである女性を女王とし、男性の王と共に立てる。彼女の名前は卑弥呼。神託を受けて人々に影響を与えた。
即位の時点で既に高齢となっていたが独身で、弟が政治を助けている。
……有名な『魏志倭人伝』の一節、邪馬台国(やまたいこく/やまとこく。倭国)に君臨した女王・卑弥呼が言及されるシーンですね。
未だに謎が多く、古代ロマンを象徴する存在として注目される卑弥呼。その死因についてもまた謎が残り、いまだに諸説定まっていません。
そこで今回は、諸説ある一つとして卑弥呼の暗殺説を紹介。なぜ卑弥呼は殺されてしまった(と考えられる)のでしょうか。
『魏志倭人伝』に見る、卑弥呼の死と墳墓

画像:国民を率いた女王卑弥呼(イメージ) public domain
卑弥呼の死について『魏志倭人伝』を読むと、このような記述があります。
……卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人……
【読み】卑弥呼、以て死す。大いに塚を作り、径百余歩、殉葬は奴婢百余人。
【意訳】卑弥呼が亡くなったので、大きな墓を作った。大きさは100歩余り、殉死者として奴婢100人余りを殺した。
一歩は6尺(約181cm)、または6尺四方(約1坪)と言いますから、100倍すれば約181m(一辺)、もしくは約100坪(約330㎡)となります。
いずれにしても相当な大きさですね。これなら殉葬者100余人を一緒に葬れるでしょう(善し悪しはともかく)。
しかし、墓の大きさや葬儀の規模は分かっても、卑弥呼の死因については触れられていません。
卑弥呼の死因について直接言及している場面はないものの、この文章の前にヒントがありました。
魏からの使者
……其八年太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之……
【意訳】時は魏の正始8年(247年)、王頎(おう き)が帯方郡の太守となった(官に至った)。
倭国(わ、やまと)の女王である卑弥呼と、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)は元より対立しており、かねて抗争を繰り広げてきた。
卑弥呼は載斯(そし)と烏越(うお)たちを帯方郡へ派遣し、その状況を報告した。王頎は部下の張政(ちょう せい)を倭国へ派遣。魏帝からの詔書と黄幢を倭国の難升米(なしめ)へ授け、卑弥呼へ檄を飛ばした。
※載斯(そし)と烏越(うお)については、一人の名前とする説もあるそうです。
……この記述の直後に「卑彌呼以死(ひみこ、もってしす)」が続きます。
倭国にとって大きな後ろ盾である魏から、使者(援軍の可能性も)がやって来たのだから、その直後の記述は使者による影響や反応と見るのが自然です。
これは魏から派遣された張政らが、卑弥呼の死に関与している可能性を示唆しているのではないでしょうか。
考えられる状況と卑弥呼以死の読み

卑弥呼の像(イメージ)
狗奴国との抗争、魏からの使者、そして卑弥呼の死……ここからいくつかの可能性が考えられます。
(1)使者とは無関係に、卑弥呼が(本当に偶然)亡くなった。
(2)使者が直接、または間接的に卑弥呼を暗殺した。
(3)使者からの檄に、卑弥呼が憤死した。
また魏が倭国への関係を維持するか、あるいは倭国を見限って狗奴国との関係に舵を切り換えるかでも変わってくるでしょう。
そもそも卑弥呼以死(もってしす)という読みが、直前の記述による影響を感じさせます。
魏からの使者と卑弥呼の死が無関係である場合、卑弥呼以死の読みは「しをもって~(墓を造った云々)」の方が自然ではないでしょうか。
卑弥呼の死後
……更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與……
【意訳】卑弥呼の死後、以前の如く男性の王を立てたが、国じゅうの者が従わなかった。後継者抗争によって互いに殺し合い、1,000人以上が犠牲となった。
そこで女王制を復活させるため、卑弥呼の娘(宗女)である壹與(いよ。当時13歳)を女王に立てたところ、ようやく抗争が終息した。張政らは檄を飛ばして壹與に告げ諭した。
……卑弥呼の死後、偉大なカリスマを喪った倭国は再び乱世に陥ります。
そして卑弥呼の遺児である壹与(壱与)を女王に立てることで、再び収まりました。
ただ、魏からの檄によって告げ諭されているところを見ると、魏からの支配がより強まったのかも知れません。
例えば「お前は亡き老母(卑弥呼)の如く、反抗的な態度はとるなよ」……的な。
終わりに

再び平和になった邪馬台国(イメージ)
「卑弥呼以死」の読みが……。
「ひみこ、もってしす」
→文章の直前に起こった出来事(魏の使者が来たこと)による影響で、卑弥呼が死んだ可能性も。
「ひみこのしをもって~」
→ただ卑弥呼の墓について言及しているだけであり、魏の使者による影響は不明。
今回は『魏志倭人伝』より、卑弥呼の死因に関する一説に考察を加えました。皆さんは、どのように考えますか?
今後、卑弥呼に関する研究が進み、その実態が明らかにされるのが楽しみです。
※参考文献:
・石原道博 編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・ 宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝1』岩波文庫、1985年5月
・瀧音能之 監修『最新考古学が解き明かすヤマト建国の真相』宝島新書、2025年3月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。