エピローグ
考古学や古代史に興味がある多くの人が、奈良県桜井市の纏向にある箸墓古墳の主が倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめ)であり、卑弥呼の有力なモデルであることをご存じのことと思います。
筆者は、以前の記事の
卑弥呼の墓はどこにあるのか? 「奈良の箸墓古墳こそが卑弥呼の墓説」
https://kusanomido.com/study/history/japan/yayoi/73423/
において「倭迹迹日百襲姫命が台与である可能性が高いという仮説をお話ししましょう。」とお約束しました。
今回は、その仮説について述べていきたいと思います。
倭迹迹日百襲姫命の謎を解明するカギはズバリ『日本書紀』です。
同書に記載される伝承などから、彼女の正体を探っていきましょう。
倭迹迹日百襲姫命は第10代・崇神天皇の叔母
先ずは、倭迹迹日百襲姫という人物についてのおさらいです。彼女は、『日本書紀』によると第7代・孝霊天皇の皇女で、第10代・崇神天皇(すじんてんのう)の叔母とされます。
倭迹迹日百襲姫が活躍したとされる崇神天皇は、日本の天皇としては初めての実在性の高い天皇と考えられ、ヤマト政権の初代大王として、その在位は3世後半から4世紀前半というのが定説です。
倭迹迹日百襲姫は、そんな崇神天皇の側にあって神を憑依させ、様々な占いや予言を行った巫女=シャーマン的な女性として『日本書紀』に登場します。
崇神王朝に災いをもたらす大物主神
倭迹迹日百襲姫は、崇神王朝で巫女としてどのような活躍をしていたのでしょうか。『日本書紀』を紐解きながら見ていきましょう。
先ずは、崇神天皇5年の条に、国内に疫病が大流行し、多くの人が死に絶えるという惨事が起こったことが記されています。
崇神天皇7年になっても疫病は治まらないので、天皇は、八百万の神を集め占ったところ、大物主神(おおものぬしのかみ)が倭迹迹日百襲姫に憑依し「我を敬い祀れば、必ず国中に平穏が訪れるであろう」と語りました。
天皇はすぐさま大物主神をお祀りしましたが、何の変化も起きませんでした。
そこで、さらに祈ったところ、大物主神が天皇の夢の中に現れ「そんなに憂うことはない。国が収まらないのは私の意志なのだ。我が子の大田田根子(おおたたねこ)に我を祀らせれば、たちどころに国中は平穏を取り戻すだろう」と告げたといいます。
天皇は、すぐさま大田田根子を探し出し、大物主神を祀らせたところ、疫病の流行が終息。
国中が平穏を取り戻し、五穀豊穣に恵まれました。
この話は、大物主神を祭祀するのは、子の大田田根子こそがふさわしく、そうしないと国が収まらないということを表しています。
では、大物主神とは一体どんな神なのでしょう。
実は、国造りの神である出雲大社(いずもおおやしろ)の祭神・大国主神と同一神なのです。大物主神は『古事記』にも大登場します。
そこには、大国主神が国造りに頓挫した時、大物主神が現れ、協力して国造りと助けたとあります。また、『日本書紀』には、大物主神は大国主神に対し「私はあなたの幸魂奇魂(さちみたまくしみたま)である」と言ったと記されています。
幸魂奇魂とは神道において和魂ともいわれ、穏和で調和的な神様のお力とされます。また幸魂は人々を平和で幸福に導く働き、奇魂は霊妙な働きで物事を成就に導くされます。
大物主神は『記紀』が成立する前から、大国主神と同一神であると認識され、三輪山(みわやま)には出雲の神が祀られ、その山麓に三輪山そのものを御神体として崇める大神神社(おおみわじんじゃ)が鎮座していました。
この伝説で注目すべきは、倭迹迹日百襲姫が大物主神の神意を語ったのに何も効力がなく、天皇自らが受けたお告げが効力を発揮したという点です。そして、大物主神は、倭迹迹日百襲姫ではなく、身内に自分を祀らせることを望んだのです。
崇神王朝内におけるシャーマンとしての倭迹迹日百襲姫の存在に、何やら暗い影が見え始めているようです。
ただ、崇神天皇7年の条には、四道将軍の一人・大彦命(おおびこのみこと)が不思議な歌を歌う少女に出合い、崇神天皇に報告したという話が出てきます。
不思議に思った天皇が倭迹迹日百襲姫に占わせたところ、武埴安彦(たけなひやすひこ)が謀反を起こそうとしているというお告げがあった。そこで、天皇は、武埴安彦を討伐した。
この話は、倭迹迹日百襲姫の占いにより反乱を抑え、崇神王朝が事なきを得たことを表しています。
とすると、この時点では、彼女の存在はまだ健在であったのでしょう。
かつて怖れた出雲の神を牛耳るヤマト王権
続いて、『日本書紀』崇神天皇60年の条に記された記事を紹介しましょう。
崇神天皇は、出雲国造家の祖である出雲振根(いずものふりね)に命じ、出雲大社の神宝を献上するように命じました。振根は九州に行っていて出雲を留守にしていたので、出雲振根の弟が神宝を献上しました。しかし振根は、戻ってくると勝手な行いをしたとして弟を殺害してしまいます。
これを聞いて怒った崇神天皇が、振根を討伐したため、出雲臣はしばらくの間、出雲の神を祀ることをしなかったとされます。その後、出雲の神にまつわる神託を得たため、崇神天皇は、再び出雲臣に出雲の神を祀らせたという内容です。
かつて崇神天皇が祟りを怖れた出雲の神である大物主神を、ヤマト政権が完全に牛耳っているのです。
もはや、ヤマト政権と出雲の神は一心同体といってもいいほどの関係になっていることにお気づきでしょうか。
倭迹迹日百襲姫の正体は台与か
ここまで崇神天皇と出雲の神である大物主神の関係について述べてきました。
それを踏まえつつ、倭迹迹日百襲姫が箸墓に葬られた経緯を述べた『日本書紀』の有名な箸墓伝説の意味を考えてみましょう。
倭迹迹日百襲姫は三輪山の大物主神の妻となった。神は日没後に姫のもとに通い、夜明け前に帰ってしまう。そのため、姫は神の姿をはっきり見ることができなかった。
姫は「あなたの麗しいお姿を見たいので、朝まで留まってください」と嘆願した。神は「明日の朝、櫛笥(化粧箱)の中にいよう。ただし、私の姿を見ても決して驚かないように」と答えた。
その言葉を聞いた姫は、怪しみながらも朝になって櫛笥を開けた。するとそこには小さな蛇がいた。驚いた姫が思わず叫ぶと、蛇は人の姿に変わり「私に恥をかかせたな。今度はお前に恥をかかせてやろう」と言って、天空を踏んで三輪山に登って行った。悔やんだ姫は箸を立て、女陰をついて死んでしまった。
箸墓伝説によると、倭迹迹日百襲姫は自分の夫が三輪山の神(大物主神)であることを知り、驚き死んだ(自害した)ということになります。
つまり、崇神王朝が神として祀った三輪山の神、すなわち出雲系の神である大物主神を受け入れられずに死んだのです。
箸墓伝説は、ヤマト王権の以前から引き継いできた邪馬台国の鬼道、すなわち卑弥呼と同様の祭祀を行うシャーマンだった倭迹迹日百襲姫が、ヤマト政権が出雲系の新たな神を祀り始めたために、排除されてしまったと考えるのが妥当ではないかと筆者は考えます。
このように考えると、倭迹迹日百襲姫の正体は卑弥呼か、その宗教的な権威を引き継いだ2代女王の台与となるのです。
崇神天皇の在位は、3世紀後半から4世紀前半のため、3世紀中頃に没した卑弥呼では時代が合いません。こうした理由から、倭迹迹日百襲姫は台与の可能性が強くなるのです。
『日本書紀』に描かれた倭迹迹日百襲姫にまつわる伝説。それは、ヤマト政権の黎明期にあって、宗教的権威を失った邪馬台国の終焉を意味すると考えるのです。
※参考文献
矢澤高太郎著『天皇陵の謎』新春文書 2019年5月
吉村武彦著『ヤマト王権』岩波新書 2018年12月
関裕二著『日本書紀が抹殺した古代史謎の真相』河出書房新書 2020年10月
招福探求巡拝の会著・高野晃彰編『全国一の宮巡拝パーフェクトガイド』メイツユニバーサル 2023年4月
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