
画像:フェリックス・レガメが描いたロンドンのヴェルレーヌとランボー public domain
19世紀後半のフランスにおいて、象徴派詩運動の先駆けとなった詩人、ポール・ヴェルレーヌ。
その名と、感受性豊かな詩風は、日本でも広く知られています。
とくに、上田敏氏による訳詩「秋の日のヴィオロンのためいきの…」という一節は、多くの人の記憶に残っているのではないでしょうか。
ヴェルレーヌの詩は、音楽的な響きとリズムを用いて、内面の葛藤や繊細な心情を巧みに表現しており、その詩風は読者に深い余韻を残します。そして、それらの作品には、彼自身の波乱に満ちた人生が色濃く反映されています。
早くから「天才詩人」の名を欲しいままにしたヴェルレーヌでしたが、同じく詩人のアルチュール・ランボーと激しい恋愛関係を持ったことにより苛烈な愛憎劇を繰り広げ、次第に人生に深い影を落としていきます。
今回は、この2人の天才詩人の関係について掘り下げてみました。
天才同士の出会い

画像:前列左に並ぶヴェルレーヌとランボー(アンリ・ファンタン=ラトゥール画) public domain
ヴェルレーヌとランボーが知り合ったのは、1870年のことでした。
当時27歳だったヴェルレーヌは、数年前に処女詩集『サチュルニヤン詩集』を自費出版し、その後に続く作品群でも高い評価を受け、一定の名声を持つ詩人として、その地位を確立していました。
一方、ランボーは当時まだ16歳の少年でした。
北フランスの田舎町シャルルヴィルで暮らしながら、すでに驚くべき詩才を見せていたものの、名前はほとんど知られていませんでした。
そこでランボーは、自分が退屈な土地で過ごしていることや、詩人としてパリで活動したいという希望を手紙にしたため、ヴェルレーヌに送ったのです。
その手紙には、自作の詩が5編同封されていました。
詩を読んだヴェルレーヌはたちまちその才能に衝撃を受け、ランボーをパリに呼び寄せるべく金策に走り、迎え入れることを決意します。
ヴェルレーヌの前に、まだあどけない美少年ランボーが現れたのは翌年のことでした。
ヴェルレーヌはランボーを大勢の詩人仲間や芸術家たちに紹介するだけでなく、2人で毎日のように飲み歩き、時には薬物にも手を出すようになり、放蕩的な生活に身を投じていきました。
しかし、そのような奔放な日々の中にあっても、ランボーの詩才はまったく揺らぐことはありませんでした。
彼が書く詩は、当時の詩壇を驚かせるほど革新的で、やがて高踏派詩人たちの集まりにおいても「恐るべき詩人」「紛れもない天才」としての評判を高めていくことになります。
激しい友情と恋

画像:17歳のアルチュール・ランボー public domain
やがて、ヴェルレーヌとランボーの関係は単なる友情の枠を超え、恋愛的な要素を帯びるようになっていきました。
才能に恵まれたランボーは、詩人仲間の間でも一躍注目の的となりましたが、その反面、周囲に対して傲慢な態度をとることも増え、しばしば人間関係に亀裂を生じさせるようになります。
ヴェルレーヌもまた、そんなランボーの態度に巻き込まれるかたちで、次第に周囲から孤立していきました。
すでに結婚して子どももいたヴェルレーヌでしたが、婚前から自らの同性愛的傾向を自覚しており、ランボーとの関係にのめり込む一方で、妻子には暴力をふるうなど、家庭生活は崩壊の一途をたどっていきます。
そして1872年5月、ランボーはかねてより計画していた異常な生活に、ヴェルレーヌを引き摺り込みます。
これは後に、「まるで“十字架の道行”のようだった」とも形容されるような、同性愛への厳しいタブーを突きつけるキリスト教的道徳観に対する挑戦でもありました。
すべての常識や道徳を投げ捨て、あえて「正常」という感覚すら狂わせることで、眠っていた純粋な感性を呼び覚まそうとしたランボー。
その過激で破滅的な挑戦に、優柔不断なヴェルレーヌは抗うことなく、深く巻き込まれていったのです。
対立と決裂

画像:ブリュッセルでの発砲事件後のランボー public domain
1873年7月の初め、ヴェルレーヌとランボーの関係に、ついに決定的な破局が訪れます。発端はささいな言い争いでした。
買い物から戻ったヴェルレーヌに対して軽口を叩いたランボーの言葉に、彼は激しく苛立ちました。その怒りのまま家を飛び出し、勢いに任せて港からブリュッセル行きの船に乗り込んだのです。
ブリュッセルに到着したヴェルレーヌは、母親と妻マチルドに宛てて、死を仄めかす手紙を送りつけました。
これを受けて母親はすぐに彼のもとに駆けつけましたが、妻のマチルドは反応を示さず、そのまま無視しました。
やり場のない思いを抱えたヴェルレーヌは、今度はランボーに電報を送り、ブリュッセルに呼び寄せます。
しかし、再会した二人は再び激しい口論を繰り返し、ヴェルレーヌの精神状態は次第に不安定になっていきました。
数日後のある朝、ヴェルレーヌは早朝から外出し、酒を大量に飲んで正午ごろ帰宅します。
その手には一丁の拳銃と、50発の弾丸が握られていました。
驚いたランボーが「何のためにそれを?」と問いただすと、ヴェルレーヌは錯乱した様子で「君のため、皆のため」と答えました。
ひとしきりやり取りが続いた後、ランボーがパリに帰ろうとすると、ヴェルレーヌは激しく動揺し、「どうしても行くなら、君のためだ!」と叫びながら、突然ランボーに向けて引き金を引いたのです。
発砲された弾は二発。そのうちの一発はランボーの左手首に命中し、もう一発は壁にめり込みました。
ヴェルレーヌはその直後、隣室に駆け込み、今度は拳銃をランボーの手に押しつけて、「お願いだから、僕のこめかみに撃ってくれ!」と泣きじゃくったのでした。
ランボーの放浪とヴェルレーヌの後悔

画像:ポール・ヴェルレーヌ public domain
このとき、ランボーの傷は幸いにも浅く、彼は医師に対して「拳銃が誤って暴発した」と偽って説明しました。
そのため、事件は一時的に収まり、応急処置を受けることで命に別状はありませんでした。
しかし翌日、パリに戻ろうとするランボーを駅まで見送りながら、翻意を促そうとしたヴェルレーヌは、ジャケットのポケットに拳銃を入れたままランボーの前に立ちはだかりました。
その不穏な様子に恐怖を感じたランボーは、とっさに広場にいた警官に駆け寄り、「あの男が僕を殺そうとしている!」と叫んだのです。
こうして事件はついに表沙汰となり、二人の関係は完全に破綻しました。
ヴェルレーヌは現行犯で逮捕され、のちに懲役2年の実刑判決を受けて収監されることになります。1875年に釈放された彼は、一度だけランボーと再会しましたが、その関係が修復されることはありませんでした。
ヴェルレーヌとの決別を経たランボーは、詩作から完全に身を引き、放浪の旅に出ます。
やがてアフリカへと渡り、貿易商として生きる道を選びますが、1891年に37歳という若さで病没しました。
一方、しばらくロンドンで暮らしていたヴェルレーヌは帰国後も詩作を続け、多くの作品を残しました。
しかし、ランボーとの破滅的な関係は、彼の心に深い悔恨と痛みを残し続けたと言われています。
試練としての芸術的才能

画像:ランボーがヴェルレーヌに送った5編の詩の一つ「坐っているやつら」の原稿 public domain
ポール・ヴェルレーヌとアルチュール・ランボー、二人の天才詩人の関係は、友情から激しい対立、そして最終的には絶縁へと向かいましたが、その過程で彼らの詩的作品には深い変化がもたらされました。
ランボーの革新的な詩風と、ヴェルレーヌの詩における感情の深さは、互いに刺激し合い、近代詩における新しい方向性を示すものとなったのです。
彼らの関係は、詩人としての才能がいかにして人間関係の中で試され、そして破綻するのかを示しており、文学史上で特異な位置を占めることになったと言えるでしょう。
参考文献:世界禁断愛大全:「官能」と「耽美」と「倒錯」の愛/桐生 操(著)
文 / 草の実堂編集部
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