
画像:ミヒャエル・ヴォルゲムート『死の舞踏』1493年、版画 public domain
中世ヨーロッパの歴史には、戦争、疫病、宗教改革といった大きな出来事に加えて、一見すると不可解で荒唐無稽とも思える現象がいくつか記録されています。
その一つが「ダンシング・マニア(Dancing Mania)」または「舞踏病」と呼ばれる現象です。
これは主に14世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ大陸の各地で見られた集団的行動で、人々が突如として踊り始め、制御不能な状態のまま踊り続け、ときには衰弱死することすらあったと伝えられています。
現代に生きる私たちには奇怪に映るかもしれませんが、同時代の文献や記録には確かな痕跡が残されています。
今回は、この不可解な現象「ダンシング・マニア」について解説します。
踊る人々の出現「舞踏病」の記録

画像:シント・ヤンス・モレンベークの教会への巡礼中に起きたダンシング・マニアの様子(1564年ピーテル・ブリューゲルが描いた絵を基に、1642年にヘンドリック・ホンディウスが制作した版画) public domain
舞踏病の記録は、主に14世紀後半から17世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各地で確認されています。
最初の大規模な発生として知られているのは、1374年にドイツ西部のアーヘンで起きた事例です。
このとき、群衆は通りを練り歩きながら踊り続け、地面に倒れるまで止まらなかったと伝えられています。
この現象はアーヘンにとどまらず、ライン川流域やアルザス地方、フランドルに加え、ケルン、ルクセンブルク、北イタリアなど広範囲にまで波及しました。
また、1518年に神聖ローマ帝国領ストラスブール(現在のフランス・アルザス地方)で発生した事例も有名です。
フラウ・トロッフェア(Frau Troffea)という女性が突如通りで踊り始め、数日間休むことなく踊り続けたのです。
周囲の人々が止めようとしても彼女は踊りをやめず、やがて同調する人々が次々と現れ、1か月のうちに50人から400人にまで膨れ上がったとされています。
市当局は当初、この異常事態を収束させるため医師に相談しましたが、医師たちは「体内の熱が原因であり、踊ることで発散させるべきだ」と診断しました。
その助言に従い、市は広場を整備し音楽家を雇いましたが、この対応は逆効果となり、さらに多くの人々が踊りに加わる結果となりました。
疲労や心不全、脱水症状によって命を落とした人もいたとされますが、正確な死者数は不明です。
「笛吹き男」と舞踏病

画像:ハーメルンのマルクト教会にあるステンドグラスから模写された、現存する最古の笛吹き男の水彩画(アウグスティン・フォン・メルペルク画、1592年) public domain
舞踏病に関連してしばしば言及されるのが、1284年にドイツ北部の町ハーメルンで起きたとされる「笛吹き男(Pied Piper)」の伝説です。
物語では、ある男が笛の音で130人の子どもたちを町から連れ去ったとされ、中世以来さまざまな形で語り継がれてきました。
この出来事の史実性については不明な点も多いものの、一部の中世記録には「子どもたちが踊りながら町を去った」と記されているものもあります。
そのため、この事件を舞踏病の一種と関連づける見方もありますが、研究者の間ではさまざまな説が存在します。
後世、グリム兄弟によって童話として整理されたこともあり、伝説と史実の境界は曖昧です。
「踊りながら町を去った子どもたち」というイメージは、後世の舞踏病を象徴する文化的モチーフとして強い影響を与え続けています。
なぜ踊ったのか?中世の解釈と近代の仮説

画像:聖ヴィトゥス public domain
中世の人々はこの現象をどのように理解していたのでしょうか。
当時のヨーロッパでは、舞踏病は「神の罰」あるいは「聖人の呪い」として解釈されていました。
特に「聖ヴィトスの呪い(St. Vitus’ Curse)」という言い伝えが有名であり、踊りに取り憑かれた人々は聖ヴィトスに許しを請うため、教会への巡礼や祈祷を行いました。
こうした信仰が、踊りを止めるための主要な治療法とされていたのです。
一方で、近代以降の研究では、舞踏病の原因についてさまざまな仮説が立てられています。
1. 麦角中毒説
ライ麦などに寄生する麦角菌には幻覚作用を引き起こすアルカロイドが含まれており、これを摂取したことで錯乱や幻覚が発生したとする説です。
LSDの原料としても知られる麦角には強い精神作用がありますが、実際の麦角中毒は痙攣や壊疽を伴うことが多く、数日から数週間にわたって踊り続ける舞踏病の特徴とは一致しないため、現在では有力視されていません。
2. 集団ヒステリー(心因性集団障害)説
現代研究で最も有力とされるのがこの説です。
ペストの大流行、飢饉、戦争、宗教的対立など、極度の社会的ストレスが引き金となり、人々が無意識のうちに身体的症状を発現させたと考えられています。
現代でも学校や職場で同様の現象が報告されており、舞踏病はその前近代的な表れであったとみなされています。
3. 宗教的エクスタシー・自己催眠説
強い宗教的情熱や神罰への恐怖から自己催眠状態に陥り、トランスのように踊り続けたという説です。
中世の巡礼や宗教集会では陶酔的な体験が多く記録されており、舞踏病もこうした宗教的背景と深く結びついていた可能性があります。
これらの仮説はいずれも決定的なものではありませんが、舞踏病が単なる医学的な病ではなく、宗教・社会・心理が複雑に交錯した現象であったことを示しています。
舞踏病の終焉と現代への影響

画像:1832年ドイツ人医師ユストゥス・フリードリヒ・カール・ヘッカーがまとめた、ダンシング・マニアに関する歴史病理学的調査のタイトルページ public domain
舞踏病に関する大規模な記録は、17世紀初頭を最後に急速に姿を消していきます。
その背景には、医学の発展や啓蒙思想の広まり、宗教観の変化に加え、都市の衛生環境や治安の改善、さらに国家が宗教儀礼を抑制したことなど、さまざまな要因が影響していたとみられます。
人々がもはや病を「神の罰」ではなく、「自然現象」あるいは「心理的反応」として理解するようになったことが大きな転機となりました。
こうして現象自体は姿を消しましたが、類似する集団現象は現代でも報告されています。
たとえば、1962年のタンザニア(旧タンガニーカ)で発生した「タンガニーカ笑い病」、1990年代のマレーシア工場での集団ヒステリー、さらには韓国の学校や工場などで繰り返し報告された集団失神事件などが知られています。
これらは、強いストレスや社会的緊張が引き金となる点で、舞踏病と共通する側面があります。
ダンシング・マニアは、単なる神経疾患や幻覚の問題ではなく、その背景にある時代、社会、信仰など、人々の心の在り方を映す鏡であるともいえるでしょう。
参考:
Justus Friedrich Karl Hecker/The Dancing Mania: An Epidemic of the Middle Ages(原題:Die Tanzwuth, eine Volkskrankheit im Mittelalter)
『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』
文 / 草の実堂編集部
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