
画像 : パラティーノにあるウェスタの神殿 public domain
紀元前7世紀ごろ、イタリア半島の都市国家として成立しつつあった古代ローマでは、国家の運命そのものを象徴すると信じられた「火」が存在した。
ローマの政治と宗教の中心地であるフォルム・ロマヌム(古代ローマの公共広場)に建つウェスタ神殿では、その火が昼夜を問わず燃え続けていたのである。
この火は、竈(かまど)や炉の火を司る女神・ウェスタに捧げられた。
古代ローマ人にとって、家庭の炉の火は家族の生活を守る中心であり、都市の聖火は国家の生命を象徴するものでもあった。
もしこの火が消えれば、ローマに不吉な出来事が起こる前触れと考えられていた。
この聖なる火を守る役目を担ったのが「ウェスタの巫女」と呼ばれる女祭司たちである。
彼女たちは古代ローマの宗教制度の中でも特別な存在であり、国家に直属する数少ない女性の聖職者であった。
幼い少女のうちに選ばれ、神殿の近くに住みながら儀式を担っていたのである。
しかし、この役目にはひとつの絶対的な条件があった。
巫女たちは長い年月にわたり、ある誓いを守り続けなければならなかった。
もしその誓いが破られたとき、想像を絶する厳しい処罰が待っていたのだ。
今回はウェスタ巫女がどのようにして選ばれ、どのような規律の中で生活していたのか見ていきたい。
6歳の少女が巫女に

画像 : ウェスタ巫女の就任儀式(1900年頃)ヘクトール・ルルー Public domain
「ウェスタの巫女」の対象となったのは6歳から10歳ほどの少女だった。
本来であれば家族のもとで育つ年齢の子どもが、公の場に呼び出され、神に仕える存在として選ばれた。
選抜を行ったのは、ローマの最高神祇官(じんぎかん ※ポンティフェクス・マクシムス)である。
この役職は宗教だけでなく国家とも深く結びついており、共和政期には有力政治家が、帝政期には皇帝自身が担うこともあった。
つまりウェスタ巫女の選出は、単なる宗教儀礼ではなく国家的な制度だったのだ。
その後、30年間にわたる奉仕が始まる。
この期間は三つに分かれており、最初の10年は学習、次の10年で実務、最後の10年は後進の指導を行った。
そしてこの30年間、巫女たちには守るべき重要な誓いが課されていた。
それは、神に仕える者としての「清らかさ」を保ち続けることであった。
そのため巫女たちは結婚や家庭生活から離れ、神殿の近くで共同生活を送らなければならなかった。
当然彼女たちは普通の女性としての人生は歩めなくなってしまうが、その代わりに特別な地位と権利が与えられた。
巫女たちに与えられた特権とは

画像 : ウェスタ神殿の内部(1902年)Public domain
ウェスタの巫女たちは、古代ローマ社会の中でも際立った特別待遇を受けていた。
まず特徴的なのは、家族からの独立である。
通常、古代ローマの女性は父親や夫の権限のもとに置かれ、自らの財産や行動を自由に決めることは難しかった。
しかしウェスタ巫女は例外であった。
父権から解放され、自ら財産を持ち、管理することが認められていた。これは当時としては極めて珍しい法的地位である。
また、公の場での扱いも特別であった。
祭礼や競技が行われる際には専用の席が用意され、移動の際には護衛が付き、道を譲られることもあった。
彼女たちは神聖な存在として人々から敬意を払われていたのである。
さらに、処刑に向かう罪人と偶然出会った場合、その刑を免除することも可能だった。
言い換えれば彼女たちは個人ではなく、ローマという国家の象徴でもあったのである。
ウェスタの巫女たちは、こうした日常の中で儀式の準備や神殿の管理を行いながら、常に聖火が絶えないように見守る役目を担っていた。
処女性を失った巫女は地下で生き埋め
ではその誓い、すなわち処女性を失った巫女には、どのような罰が与えられたのだろうか。
結論から言えば、地下に生き埋めにされ、そのまま死に至る処罰であった。

画像 : ウェスタの処女の殉教 public domain
ウェスタの巫女の血を流すことは、古代ローマにおいて禁じられていた。
そのため通常の処刑は行われず、市内に設けられた地下室へと導かれた後、入口は封鎖され外部との接触は完全に断たれた。
内部にはわずかな食料と水が置かれたが、それが尽きれば生き延びる術はない。
巫女は地下に閉じ込められたまま、最終的には餓死、あるいは脱水によって命を落とすことになった。
つまりローマは巫女を「処刑」したのではなく、あくまで「巫女自身が死へ向かった」という体にしたのである。
ウェスタ巫女の純潔は国家の安定と結びついており、それが破られることはローマ全体の不吉や災厄とされたのだ。
その代表的な例として知られるのが、1世紀末のウェスタ巫女コルネリアである。

画像 : 地下牢で骨に囲まれて生き埋めにされたウェスタの巫女コルネリア Public domain
当時の皇帝ドミティアヌスは、自ら最高神祇官として彼女を不貞の罪で断罪した。
理由は不明だが、厳格な統治を示すための見せしめ的な意味合いだったとされ、彼女には弁明の機会も与えられなかった。
コルネリアは最後まで無実を訴え続け、「自らが長年守ってきた祭儀によって皇帝の勝利も支えられてきたはずなのに、なぜ自分が不貞とされるのか」と叫んだという。
地下に連行される途中も威厳を失わず、衣服に触れようとした者を拒んだと伝えられる。
また、疑われることだけでも致命的であった。
『ローマ建国史』によれば、巫女ポストゥミアは、その服装や振る舞いが軽薄に見えたという理由だけで不貞を疑われた。
最終的には無罪とされたものの、本人の行為ではなく周囲の印象ひとつで命運が左右されかねない立場にあったことがうかがえる。
一方で、疑いを晴らした例として語られるのが巫女トゥッキアである。
彼女も不貞を疑われたが「穀物の殻を取り除くための穴だらけの道具であるふるいで、水をこぼさず運ぶ」という奇跡によって無実を証明したという。
このようにウェスタの巫女は、誓いが守られている限りは尊敬され特権もあったが、ひとたび疑いが向けられれば命に直結する存在だったのである。
キリスト教化で消えたウェスタの巫女

画像 : ウェスタ巫女 public domain
ウェスタ巫女の制度は、伝承ではローマ初期、紀元前7世紀ごろに始まったとされ、その後およそ千年にわたって続いた。
王政から共和政、さらに帝政へと体制が変わっても、この制度は維持され続けた。
しかし4世紀になると、ローマ帝国の宗教状況が大きく変化する。
キリスト教が広まり国家の中心的な宗教となったことで、従来の多神教的な信仰は徐々に力を失い、国の支援も縮小されていった。
382年、皇帝グラティアヌスはウェスタ神殿に与えられていた財源を取り上げ、従来の宗教制度への支援を打ち切った。
そして394年、皇帝テオドシウス1世が異教的な祭祀を禁止すると、ウェスタ巫女の制度も事実上終わりを迎えた。
長く燃え続けてきた聖火も、この時に消えたとされている。
巫女たちが暮らしていた住居はその後も利用され、別の用途へと転用されていった。かつて国家の中心にあった宗教施設は、時代の変化の中で役割を変えていったのである。
このようにウェスタの巫女は、古代ローマにおいて宗教と国家が不可分であったことを体現する存在だった。
特別な地位と引き換えに課された彼女たちへの苛烈な規律は、古代ローマの本質を今も伝えている。
参考 : Livy, Ab Urbe Condita, 1.20 | Plutarch, Life of Numa, 9–10 他
文 / 草の実堂編集部
























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