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画像 : 息子ブリタニクスを抱いたメッサリーナの像、ルーヴル美術館 紀元45年頃 public domain
古代ローマには、「快楽に溺れた愚かな皇后」として後世に語り継がれ、スキャンダルの象徴となった皇后がいる。
古代ローマ帝国で第4代目の皇帝となったクラウディウスの3番目の妃、ウァレリア・メッサリーナである。
メッサリーナは、初代皇帝・アウグストゥスの曾孫にあたり、第3代皇帝カリグラや後に第5代皇帝となったネロとも血縁関係を持つ、名門の出身であった。
紀元38年、当時18歳前後だったメッサリーナは、47歳のクラウディウスと結婚した。約30歳の年の差婚であった。
この結婚は、皇帝一族との結びつきを強化する政治的意図があったと考えられている。
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画像 : ローマ帝国第4代皇帝 クラウディウス public domain
目次
男を寝室に連れ込む皇后
二人の間には、後に皇帝ネロの妃となる、娘のオクタウィアと、クラウディウスの後継者と目された息子ブリタンニクスが生まれた。
紀元41年、第3代ローマ皇帝カリグラが暗殺され、クラウディウスが新たな皇帝に即位すると、メッサリーナは皇后として宮廷内で強い影響力を持つようになった。
彼女は20歳ほどの若さで、富・名誉・地位のすべてを手に入れたのである。
しかし、メッサリーナは皇后としての自覚に欠け、母性も乏しかった。
仕事に忙殺される夫から顧みられず、次第に欲求不満を募らせたメッサリーナは、毎晩のように宮廷で夜会を開くようになる。
招かれたのは、彼女好みの人気俳優やお世辞のうまい貴公子たちであった。
やがて、「メッサリーナが男を寝室に連れ込んでいる」という噂が宮中に広まり始める。
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画像 :メッサリーナ役を演じたシャーロット・ウォルター、ハンス・マカルトの絵画(1875年頃)(1875年) public domain
人気俳優との交わりを夫から命令させる
皇帝クラウディウスがブリタニア遠征で大勝利を収め凱旋式を催した際には、メッサリーナは思いを寄せている人気俳優の裸像を円形劇場に作らせた。
この非常識な行動は、ローマ市民のあいだで「皇帝は皇后にいいように操られている」との悪評を広め、誰もがメッサリーナと人気俳優は男女の仲にあると信じて疑わなかった。
実際には、彼女が一方的に俳優へ思いを寄せていただけであり、彼はクラウディウスの怒りを恐れ、彼女の誘惑に応じていなかった。
すると、メッサリーナはクラウディウスに、「俳優が私の言うことを聞かない。私の命令にはすべて従うよう、あなたから命令してほしい」と懇願したのである。
これに対して、クラウディウスは激怒するどころか無表情のままうなずき、俳優に「皇后の命令に従うように」と命じたのだった。
驚いた俳優は、皇帝の命令には逆らえず、メッサリーナに従うしかなかった。
メッサリーナは、夫である皇帝の権力を存分に利用し、クラウディウスもまた、彼女の浮気の噂を耳にしても嫉妬することなく放置したのであった。
娼婦になり一晩で25人を相手にした皇后
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画像 : 娼館で働くメッサリーナ 16世紀後半に創られたアゴスティーノ・カラッチの食刻 public domain
宮廷で酒池肉林の夜会を開き、人気俳優との浮気を皇帝に許可させても、メッサリーナの欲望は留まることを知らなかった。
ローマ皇帝の妻として宮廷の頂点に君臨しているにもかかわらず、彼女は毎晩のように裏町の娼館に入り浸り、快楽に溺れていたという。
クラウディウスや宮廷が寝静まると、メッサリーナは髪をベールで隠してガウンをまとい、従者をひとり従えて宮廷を抜け出した。
娼館の一室で「リュキスカ」という源氏名を名乗り、黄金色に塗った胸をさらけ出し、次々と男たちと交わり続けたのである。
「リュキスカ」とはラテン語で「雌狼」を意味するという。
さらに、娼婦たちとの競争にも挑み、一晩で25人の相手と交わって勝利を収めたとの逸話も残している。
こうして欲望の限りを尽くした後、娼館の閉店時間が訪れると、彼女はそそくさと宮廷へ戻っていくのだった。
ローマ市内では、皇后が愛人を侍らせていることや娼館で客をとっていることは周知の事実であり、もはやメッサリーナのスキャンダルを知らぬ者はほとんどいなかったという。
元老院ガイウス・シリウスとの二重結婚
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画像 : メッサリーナが次期皇帝にと企てていた息子ブリタンニクス cc Gautier Poupeau
暴走するメッサリーナは、ローマでも有力な貴族の一人である元老院議員のガイウス・シリウスとも密通し、愛人関係を持っていた。
驚くべきことに、彼女は夫であるクラウディウスが地方に滞在している間に、シリウスと秘密裏に結婚式を挙げてしまったのである。
さらにメッサリーナは、シリウスに庭園つきの屋敷を贈るため、その土地の所有者を罪に陥れる暴挙にも及んだ。
彼女はシリウスと共にクラウディウスの暗殺を企て、息子ブリタンニクスを皇帝に即位させた上で、自ら摂政として権力を握ろうとしていたと考えられている。
この大胆な行動は宮廷内でも危険視され、皇帝の側近ナルキッソスによってクラウディウスに報告された。
当初、クラウディウスはこの報告を信じようとしなかった。
しかし、シリウスの屋敷に皇帝の家宝が運び込まれている証拠が提示されると、一転して激怒する。
メッサリーナとシリウスが帝位を狙っていると判断し、即座にシリウスの処刑を命じた。
一方で、メッサリーナについては決断を下すことをためらったと伝えられている。
クラウディウスはメッサリーナの弁明を聞こうとしたが、ナルキッソスは「皇帝が皇后と再会すれば、いつものように丸め込まれてしまう」と判断し、独断で彼女の処刑を決定したのである。
一説には、ナルキッソスはメッサリーナに密かに想いを寄せており、シリウスとの結婚に嫉妬したため、彼女を陥れた可能性もあるとされている。
処刑の恐怖に震えた最期のメッサリーナ
こうしてナルキッソスは、百人隊長に「皇后の処刑しろ。皇帝の命令だ」と偽りの指令を下したのだった。
近衛兵たちに追われたメッサリーナは、母ドミティアとともに庭園に身を潜めたが、ほどなくして捕えられる。
近衛兵は彼女に自害を促し、短剣を渡した。
皇后であることから、彼女は自ら命を絶つという名誉ある選択を与えられたのである。
しかし、彼女は恐怖のあまり剣を握る手が震え、自ら命を絶つことができなかったという。
その時、母ドミティアは「みっともない生き方をしてきたのだから、せめて立派に死になさい。」と諭したとされている。
それでも恐怖に打ち震えるメッサリーナを見かねた近衛兵は、自分の剣で彼女を刺し貫いたのであった。
妻であり皇后でもあったメッサリーナの処刑の報告を受けたクラウディウスは、無表情のまま「ワインをもう一杯」とだけつぶやいたという。
その後、クラウディウスはメッサリーナの名を公的記録から抹消する「ダムナティオ・メモリアエ」を命じ、その存在を歴史から消し去る命令を下した。
「ダムナティオ・メモリアエ」とは、ローマ帝国において、国家や皇帝に対する反逆者を公式記録や人々の記憶から抹消するための非常に重い刑罰である。
当時の公的な記録からはメッサリーナの名がすべて削除され、宮廷にあった彼女の像も破壊、彼女の肖像を模した硬貨も排除されたという。
メッサリーナは本当に悪女だったのか?
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画像 : メッサリーナの死後、クラウディウスの五歳となったアグリッピナ public domain
メッサリーナは「快楽に溺れた愚かな皇后」として悪名高いが、その評価は「後世の政治的プロパガンダによるものではないか」とも考えられている。
彼女に関する記述は、主に元老院議員の執政官で歴史家のタキトゥスによる『年代記』、同じ肩書きのカッシウス・ディオの『ローマ史』、そしてローマ皇帝の側近官僚で伝記作家のスエトニウスによる『ローマ皇帝伝』に依拠している。
これらの史料では、メッサリーナは「冷酷な放蕩女性」として描かれている。
しかし、これらの記録の多くは、メッサリーナの死後、クラウディウスの後妻となったアグリッピナの時代に書かれたものであり、政治的な意図によって誇張されている可能性があるという。
古代ローマでは、強い女性はしばしば「強欲で残忍な存在」として記録される傾向があり、メッサリーナの評価もその影響を受けた可能性が高い。
実際、タキトゥス自身も「スキャンダラスな噂を検証せずに記した」としており、当時の皇后への偏見が色濃く反映されている。
皇后メッサリーナの悪評は、彼女の権力と影響力を危険視した、宮廷の派閥争いの中で生まれたものだったのかもしれない。
歴史的な公式記録や人々の記憶から抹消されるという、死刑よりも重い歴史的な刑罰を受けた悪女メッサリーナ。
しかし、皮肉にも、彼女の死から約2000年が経った現在でも、彼女の存在とその悪名は語り継がれている。
参考文献 :
『きれいなお城の残酷な話 ベスト版』桐生操 (著)
『Claudius (Roman Imperial Biographies)』 Barbara Levick (著)
『年代記』タキトゥス
『ローマ皇帝伝』スエトニウス
『ローマ史』カッシウス・ディオ
文 / 草の実堂編集部
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